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天使を逃走
-2-






 グロリアは女の子が好きだった。一時、高校生の女の子と淡い恋をしていた。
 三つ編み編んだかわいらしい子で、毎日アイスクリーム屋に通ってきては楽しそうにグロリアとおしゃべりしていたっけ。
 僕が通りかかったら、グロリアは僕にもその子と仲良くして欲しかったらしくて、三人で商売ほったらかしで話し込んだもんだった。
 ある時男の子はきらい? って尋ねたら、アルやカルロは大好きよ。
でも変なビデオはきらいなの。


*



 沼の近くにグロリアが突っ立っていたので近づいて声をかけた。なんだかしょんぼりしていたので気になったのだ。
 沼はそんなに大きくないのだが、底なしで時々迂闊な家畜を飲み込むのと、夏には蚊の温床となるのでそれなりに有害だ。
 しかし、村人達はここを柵で囲うことも埋め立てることもしない。無いことにしているんだと、雑貨屋の主人が言っていたが言い得て妙だ。だれもこの沼に近づかない。
無いことにしているのだ。
「どうしたの?」
 グロリアは振り向いて笑ったが、どこか力無い印象を受けた。
「ちょっとねー、いろいろ考えてたのー」
「いろいろ?」
「神父さん知ってる? 昔、ここで友達が死んだの」
 …何のことだか、私には分からない。寡黙な村人達が話してくれる以上の記憶は、私に無いのだ。
「知らないよねー。あのね、ローザって言う子だったんだ。あたしとちょうど同じ年で、仲良しだったの。
 いつもはね、お母さんの言う通りに六時までには家に帰ってたの。でもその日は八時を過ぎても戻ってこなかったから、みんな心配して探したの。
 でもどこを探しても見つからないからこの沼にはまったんじゃないかってそーゆーことになって、大人の人達がここをさらったのね。
 そうしたらすぐに、彼女の体が出てきてね、でももうとっくに死んじゃってた」
 彼女は口を噤んだ。その横顔を見れば、彼女がどれだけその事件を悲しんでいるのか分かった。
「それは何歳の時?」
グロリアは私の目を見た。
「じゅっさい」
「…そうか」
「あたし、お葬式の時のことよく覚えてるんだ。
 前の神父さんがとてもいいお話をして、女の人達がみんな泣いちゃった。あたしよく分かんなかったの。だからどうしてみんな泣くの? ってお母さんに聞いたら、かわいそうだからよって教えてくれた。
 大人の人って、かわいそうにっていって泣くんだな、とその時初めて思ったの。…今でもちょっと、わかんない」



*




 神父さんは青い瞳を情けに曇らして、
「それは悲しかったね」
と聞きました。だからあたし言いました。
「ううん。だってあたし本当はローザのことあんまり好きじゃなかったの。…あたし悪い子だね。
 だってあの子と遊ぶと、いつもあたしが色んな気を使わなくちゃならなかったんだもん。お菓子も、宝物もみんなあげなくちゃいけなかったの」
「わがままだったの?」
違うわ、神父さん。
「頭がね、少し変だったの」
「ああ、そうだったの」
 すぐに答えてくれた神父さん。あたしはまた少し神父さんが好きになりました。
 多分あたしがずっと待っていたのはこういう人だったのでしょう。
そしてそんな確信が、あたしの膝を震わせます。




*





 ローザ・バルビーニの墓を見つけた。
あんまり寂しい墓だったので、周囲を手短に掃除して、丁寧に祈りを捧げた。ここの墓地にはもう何十年も墓守がいないので、墓の管理は各個人の問題だ。
 墓の上にしろつめ草か何かで編んだブーケが置かれていた。もうぱりぱりに乾燥して原形をとどめていない。一体いつ頃置かれたのだろう? そう思いながら手で払いのけると、年号が出てきた。
 1977年5月1日(花祭りの日だ)生まれ…、死亡は、 87年…6月13日。
 命日の三日前だというのに、不憫な子だ。親からすら、花を手向けられない、孤独な子。
 葬儀の様子を聞いたときにはそうとも思わなかったが、やはりまともに扱われていたとは思えない。閉鎖的な村の中できっとあの沼のごとくに、「無いことに」されてきたに違いない。
 …ああ。もしかすると彼女は、この幼い友達のために帰郷したのかも知れない。誰も悼むことのない精神障害者の子どもの死を、独り慰めるために戻ってきたのかも知れない。
 もう、私はこの説を半ば信じかけているが、だとすれば彼女の中に神はいる。いやそんなことは分かっていた。彼女の魂は善きものに違いないのだ。
 それなのに、なぜ教会へ来ないのだろう? …イエスが両目を閉じているから?
分からない。
 …私は今どんな顔をしてるんだろうか。
もし、彼女が命日墓の前へやって来たら、私も一緒にローザの死を弔おう。


*




 僕はよく、グロリアとその少女が手をつないでドルソドゥーロのあたりを歩いているのを見た。
 少女は頻繁にグロリアのアパートに泊まっていたようだし、彼女達が恋人同士だと言うことは周知の事実だった。
 ただどこまでの関係だったのか、僕は知らなかった。

 一年目の春、少女は大学へ行くためにボローニャへ発ち、グロリアは取り残された。
 その時はさすがの天使も少し元気がないように見えたので、
「リアちゃん、今度ナイショで飲みに行こうか」
と、カウンターに腕を組んでその上に顔を乗せた。すると彼女はおんなじように鼻先をぴったり僕の鼻先に寄せ、にっこりと笑った。
「どもアリガト。でも大丈夫。ただね」
「どうしたの」
「あたし、今まで置いてきぼりにされたことなかったから、あーこんな感じなんだーっ、て」
と、白い優しい腕に鼻の下まで埋めてしまう。
「でね、昔置いてきぼりにした友達のこと思いだして、あたしひどいことしたんだなって思ったの。ローザは今もずっと独りぼっちで、悲しくて泣いているのかも知んないなー」
 僕は彼女の額に手を伸ばして、生え際を人差し指でなぞった。
「ローザ」
「友達の名前」
「…独りぼっちで泣いているのは本当は君なんじゃないの?」
 ぱちぱちっと、音を立ててまぶたが動いた。目元だけ見ると、本当に彼女は子どもに見える。
「今日、君んちに食事でも作りに行こうか」
「ありがとう。…でも、だめなの」
「前に僕のこと好きだって言ったよね」
「アルのことは大好きよ。でもねあたし…、セックスが嫌いなの」


「…パタ、パタパタ」
「なあに?」
「ヨコシまな心が勝手にどんどん開いてった妄想の扉を閉じてるの。最後一つ」
彼女の頭の上で、僕の右手が虚空を閉めた。
「閉まった。ごめんね」
 その右手をそのまま下に、黙って彼女の頭を何度かなぜた。この少女は僕が、一晩過ごすような相手ではないのだ。
 この馬鹿モンが。こんなかわいい十代の女の子相手に何しようとしたんだよ。
 じゃあというので僕はその晩、バール「ラピダ」で彼女に、夕食をご馳走して別れた。









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