天使を逃走
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裁きはいつか必ずやってくる。 だから私も裁かれる。 そんな当たり前のことが。 * ところがその晩のことだった。 僕が部屋でテレビを見てたら、誰かが呼び鈴を鳴らす。こんな時間に誰だろうと、フォンを取ると、グロリアだった。慌てて共同玄関の鍵を開けた。 グロリアは丸っこい頬を真っ赤にして、近寄ると酒の匂いがした。 「酒飲んだの? 未成年」 「昼間は誘ったクセにぃ〜」 彼女はふらふらっと、自分で壁へもたれ掛かった。成人しきっていないだけに、なんだかその酔態は徒に痛々しかった。 「大丈夫? 吐き気は?」 彼女の方へ屈み込む。一体どこでこんなに飲んだのだろう。 「平気だよ〜っ。それよりもアルぅ」 グロリアの両手が思いも寄らない巧みさで僕の両肩をつかんだ。一気に縮まる空間の中に、グロリアが熱っぽい息を吐いた。 「……ね、やろ?」 すぐ首を振った。これは完全に酔っていると思ったのだ。 「やんないでいいんだよ。君は嫌いなんだから」 「違うー。やりたいのー」 「昼間言ってたんと違うでしょ。しっかりしてよ」 「アルこそ違う〜! 妄想の窓よ開け〜、ぱたぱた」 「しーっ! 窓はもう閉じちゃったの。開かないの」 「んもーっ」 グロリアの額が胸板をぐりぐりと動いた。 「もーー…」 ちょっと暴れた彼女だが、その後はぐったりと静かになった。それで僕は赤ん坊でも抱いてるような気になったものだ。黙ってしなる背中の骨を見ながら、そこに本気で天使の羽根を探していた。 「…リア、君はまだ十九なんだし、あれが嫌いでも全然いいんだよ。焦り狂ってしなくちゃいけないようなもんでもなし、別に男相手にしなくちゃいけないこともないんだから」 「でもね」 グロリアの声はびっくりするほど低かった。 「あたし好きになりたい。 男の人好きになりたい。 あれが嫌いなあたし嫌い。 好きになりたいよ。…アル」 薄いTシャツの生地に、暖かいものが滲んだ。 「あたしまともになりたいよ」 「どうしたの? リア」 グロリアは泣き出して、それから後は話はなかった。僕はようやく彼女を部屋に上げ、ベッドに寝かしつけて自分は、アフガン織りの毛布を二つ折りにしてソファに寝た。 グロリアは翌朝もう元気だった。 僕は彼女の中に「まともでない」自分を嘆く暗い影があることを偶然にも知ったわけだが、朝の光の中でセロリをかじる彼女を見ているともう、あれは夢の中の出来事じゃなかったかと思ってしまう。 けれどエビ折りになった彼女のうずくまる姿は、妙に脳裏に焼き付いて、しばらく眼にゆらゆらしていた。 僕は天使の揺りかごを見たと思った。 * 小さな茶色い靴の先で、バラの白い花びらがばっ、と散った。 私はその行為自体に驚いたのか、それともそこに弾けた思いがけない美にぼうとしていたのか、判然としない。 ともかく、次の瞬間には私の神父としての理性が復活して、私は彼女を激しく叱咤した。 「グロリア! なんてことをするんです!」 グロリアは私の大声にも頓着しないでさらにその花束を踏みつけ、ぎょっとするような力で執拗にぎりぎりと砂利を鳴らした。 「グロリア…!」 少女の無言の怒りは大人しい生活を続けていた私に一種の恐怖を呼び起したほどで、私は一連の冒涜行為が済むまで彼女に手出しできなかった。 「せっかくの花を…!」 ローザの命日は波乱の朝。 グロリアはいつの間にか手向けられていた白いバラの花束を目にするなり、それを墓石から叩き落としたのだ。彼女がようやく花を踏みつけるのをやめると、私は強引に彼女を礼拝堂へ引きずっていった。 「何故友達の墓を冒涜したのですか! 今すぐに主の前で赦しを乞いなさい!」 怒鳴りつけた先でグロリアは黙っていたが、今まで見せたこともない程不埒な顔つきをして、私と対峙していた。 私の心の中で、宗教倫理を目の前で踏みにじられた激しい怒りが火を噴いていた。何よりもこの少女が、私が惚れ惚れとしてこれぞ善なる魂だ、善きキリスト者だと思っていたその姿を無残に裏切られた衝撃は大きかった。 私は、激昂していた。殴ったことのなかった祈祷台を二度三度殴った気がする。 「あなたはイエスが目をつぶっていると言った! 目をつぶっているから何をしても見えないとでも思っているのですか、浅はかな! 主は全てを見ておられ、全てをご存じなのですよ!」 「主は確かに全てをご存じでしょう」 グロリアの声は冷え冷えとして他人行儀だった。 「でも、現実に起こっていることを止めるには、大きな本物の瞳が必要なんです」 くつっと、意地汚い笑みが彼女の唇に宿った。 「…イエスはみんな見て、全て見過ごしておられるのよ」 私は怒りのあまり、顔から血が引くのが分かった。 「…グロリア、口を慎みなさい!」 少女が、叫ぶ。 「私はへンなこと言ってない! 墓を冒涜したあたしが今も雷に打たれもしないでのうのうと生き延びているのがいい証拠でしょ!」 彼女は祭壇の奥を弾劾でもするように指さした。 「あの男はいつも、いつも無力よ。…神父さんは、あの天井近くに貼りついている男の力で、これから起こることを切り抜けられると思っているの?」 「これから起こる…?」 「あたし試してみることにしたの」 突然グロリアの手が上着のポケットを探り、信じられないようなものをそこから引っ張り出してきた。それは黒光りのする、小さな玩具、いじくりがいのある、そして力を持った――――人の死ぬ玩具、拳銃だった。 小さな銃口が持ち上がって私の方を向いた。 本物か? 偽者か? 区別がつかないまま体だけが固まる。 私は二十五年間ほど生きてきて、自分が生唾を飲んだ音を初めて聞いた。 沈黙の中で、グロリアが喋っている。その表情にもう、笑みはなかった。青白い頬だった。 「神父さん、ごめんなさい。 あたし試してみるわ。もう一度だけ試してみる。 あなたがいい人だから試してみる。 神様が本当にあたしたちのことを愛しているのか、試してみるわ」 * 大人の人達は誰も、ローザの首の回りに着いていた縄の跡について何も教えてくれなかった。あたしはパパやママに尋ねるよりも先に、それがタブーであることをどこかで感じ取っていた。 何が起こったのか分かんなかった。あたしはドミノが倒れ始めて慌てる人に似ていた。出来るだけ自分の傷を小さくしたくて救いを求めてた。 あたしは神父さんに相談した。 神父さんは六十過ぎの温厚な、あたしの大好きな人で、あたしの話を聞いてくれた。 「あたし、ローザが行方不明になった日、昼間にあの子に会いました。あたしはパパに言いつけられてずっと洗い物をしていたんです。 そしたら裏口からローザがちょんちょんって入ってきて、挨拶したなりそこでもじもじしていました。あたしはあの子の変な仕草にもう慣れっこになっていて、彼女が何か落ち込んでいるのが分かりました。 それでこっちから聞いたんです。 「ローザどうしたの? なんかあったの?」 ローザは何回か首をひねっていたんですけど、こんな事を言いました。 スカファルリさん今日あたしに、お人形くれるって言ってる。 あたしずるいと思いました。ローザは病気だからいつも、色んな人から色んなものをもらって。その後あの子はこう言いました。 スカファルリさんこないだ、あたしの前でおしっこしたの。 白いおしっこだった」 神父さんはあたしにやさしく言った。 かわいそうに。ローザがいなくなって悲しいね。人が死んだときには、色んな小さなことにとてもたくさんの意味があるように感じるものだよ。 でもねグロリア、それはグロリアがショックを受けてとても疲れているからなんだ。今日はご本をかしてあげるから寝る前にはそれを読んで、そういう気になることは忘れておしまい。 そしてあたしときたら本当に忘れた! 神父さんに相談して胸のつかえが下りて、本当にすっかり忘れてしまっていた! どうして目覚めの時などきたのかしら。 あの言葉を思い出すことすらあったのに、馬鹿なところに早熟なあたしは、スカファルリさんは腎臓が悪かったんだなんて思ったりして。 どうして目覚めてしまったのかしら。何のきっかけがあったわけでもないの。 ただある時、急に閃いたの。 ぴかっとしたのは十五の時だった。 その光があんまり強かったから、幸福だったはずの十五年間が敢え無く塵芥と化した。 もう誰の顔も見たくなくなって気がついたら、あたしは、海の側へと逃げていた。 あたしは神様なんか信じない。 真実を見ない神様なんて信じないわ。 * ごめんね神父さん。 あたしひどいことをしている。あなたの瞳を試そうとしている。 拳銃を突きつけて、これってレイプだ。 神様動いて。 お願いだから両目を開いて。 こんなあたしを撃ち殺してよ。 「……。 神父さん、なんて言ってるの? 「……もしも…。 なんて言ってるの? 「もしも私が…… 「間違っていたのなら教えて下さい。」 * 突然、弾かれたみたいに私の体の上から彼女がどいた。 私ははっとして、咄嗟に上体を起こして壁へと退いた。 その衝撃でたまっていた涙が頬へ落ちた。 グロリアが、呆然としたような顔をして床に両膝をついていた。拳銃は手に握ったまま、けれども床に落ちて横を向いている。 「グロリア…」 私の体は自由になったが麻痺していて、はだけたシャツを掻き併せる気力もなかった。 名前を呼ぶと、それに応えるようにじんわりと、彼女は笑った。 それはあどけない、年齢のない無邪気な微笑みだった。けれどその両目の端から、つっと涙がこぼれて、そのイメージを裏切った。 「あたし神様を、とうとう見つけちゃった」 と彼女は言った。 「神様がいるってこんなに幸せなことだったんだね」 体が動かなかった。ただ目だけを彼女に充てていると、グロリアは立ち上がり、私の側に跪いて私の唇にキスをした。 「さようなら、神父さんの唇にいる神様。 あたしもう、ここには来ないわ」 待って。 私の口に神などいない。 言葉が喉に詰まって出てこなかった。 私はそんな人間じゃない。 グロリアの体温は離れていった。 カツカツと床を蹴る足音がしたかと思うと、扉が軋んだ音を立てた。 礼拝堂は静かになって、床は冷たく、イエスも冷たい。動いているものと言えば私の心臓の鼓動ばかりだ。 違う。 と私は唇を噛んだ。 私のどこにも神などいない。 私は一人の信徒に肩入れした挙げ句、欲情しかけていたただの愚か者だ。 何がバチカンだ。何が出世だ。何が思考だ。なんて身の程知らずだったのだろう。 お前がこの混沌に、大きな欠落に、何か名前を付けられるとでも思っていたのか? お前は自分が神にでもなったつもりでいたのか。 私は両手で顔を覆って、そこに座り込んだまま長く、あるいはちょっとの間、泣いていた。 |