コントラコスモス -3-
ContraCosmos




 歯だった。
ぺかりと、差し込む光を跳ね返すほど健康な白い歯だ。
 丸くした目でそれを唖然と眺める林檎、マヒト、それから腕を組んで感心する私の前を得意げに通過させた後、ヤナギの医師は反らした鼻から息を漏らした。
「どうだ。これ以上はないってくらいのいい歯だろ。これは買いだぜ、ミノス」
 確かにそうだ。あの黒いベールのご婦人は運がいい。あれは健康な成人男性の前歯であり、骨の代替として充分使える。しかもいかさま歯医者の弁によれば二日前に抜いたばかり。今回は堕落坊主に金を払って安置室の死体を暴く必要はなさそうだ。
「確かに。対価は金か? 薬がいいか?」
「二回に分けて薬で頼むわ。これを抜くのに結構色々使っちまったからな。おかげでうまく行ったんだが」
と、ヤナギ先生は猫みたくご満悦である。
 この灰色の頭の中年親父は、もう三十年以上歯医者をやっているというのに一度も公式な免許証(これとていい加減なものだが)を拝んだことがないという、筋金入りのモグリだ。家の井戸の側にえらく大きなヤナギがあるもので、「ヤナギの医師」だの「ヤナギ先生」だのと呼ばれる。
「しかし、なんでまたそんな悪くない歯を抜いたんだ? ちゃんと本人の希望だったんだろうな?」 
 どこまでも真面目なマヒトは疑惑の眼差しだ。ヤナギの医師は決して下手くそではないが、何をするかは分からない与太者めいたところがあるので神学生は不安なのである。
「なにおう、俺はそういう真似はしないぞ。相手がちゃーんと希望したから抜いたのさ」
「でもでも、大人の歯って、二度と生えてこないんでしょ? 何で抜いちゃったんですか?」
と、林檎。
「いやそれが! 愛のなせる技なんですなあ!」
 ヤナギはよくぞ聞いてくれたという勢いでカウンターを叩いたが、反対に観客二人は警戒して体を引いている。素でここまで胡散臭いのも一種の才能だろう。
「もともとな、そのお客は昔前歯を一本抜いてるんだよ。まだ十代の始めの頃だ。何でも道で転んで折ったとかでな。根が割れてもうどうしようもないから取ったんだと。
 だからもともと前歯の揃いは妙だったわけだ。歯が動いて隙間はそれほどじゃなかったんだが、左右対称じゃなかったんだね。
 で、それが格好悪いってんでこの度その反対側の一本も抜いて、歯を揃えに掛かったってわけさ」
「……それがなんで愛の技だ」
「マヒトさん、愛のなせる技です」
「? なんだ林檎。どっちでもいいだろ」
「よくありません!」
「バカかお前は」
 思春期の売り子の尻は私が叩いておく。そしてヤナギの医師の前にお望みの薬剤を出したが、モグリはまだ話の途中で見もしなかった。
「鈍ちんだな、マヒトくん。女だよ! 女がいなきゃそんな痛いことするわけないだろ。男は愛する女のために涙をのんで前歯を抜いたってわけさ」
「ああ! そういうことか、なるほど!」
 こっちも素だ。ヤナギの医師は真面目に呆れ顔で神学生を見、
「あんた神父には向いてねえなあ」
みんなが心の中で思っていたことをはっきり言った。
「…………」
 店の中に何ともいえない沈黙が満ちたその時、私は誰かが店のドアの前に立ち、こつこつと控えめに看板の隣をノックしたのに気が付いた。
「……? はい、どうぞ?」
 わざわざドアをノックするようなお客に心当たりがなく、私はカウンターから声をかける。するとごく控えめな速度でドアが開き、まず長い長い見事な黒髪が最初に目に飛び込んできた。
「あの……、こんにちは……」
 若い女性だ。褐色の肌に輝く生き生きとした目。見慣れない織物の足元まで届く衣服。――珍しい、マラガ人だよ。
「いらっしゃい。ご用ですか?」
 女性は全員の視線を集めて居心地が悪そうだったが、それでも気丈な性格なのだろう。ドアを背にしてにっこり微笑んでみせた。
「あの、私今度ここの三階に越してきた者なんです。少しだけでも、ご挨拶しておこうと思って……」
 ああ。
そういえば家主がそんなことを言っていたっけ。三階は以前の間借り人が引っ越してもう半年くらい空きっ放しになっている。一階と地下部分はうちが使っていて、二階は家主。三階にこの人が住むと……。
「それはどうも。一階のミノスです。
 あと四階というか、屋根裏に住んでる奴もここにいますよ。……おいリップ。林檎、起こせ」
「リップさん!」
 林檎がカウンターの隅に走っていって、荷物の影に隠れて突っ伏していたリップの肩をわしわしと揺すった。
「なんだよう、もう……」
 非難がましい声と一緒に頭が荷物から現れる。遠いので酒の匂いこそしないが、目は虚ろだし髪の毛はぐしゃぐしゃだし、無精ひげは隠しようがない。林檎が耳に口を近づけて早口で説明をすると、それが頭に響いたらしく、来客の方へしかめっ面を向けた。
「あ、どうも……。四階のです……うっぷ」
「…………」
 手前でマヒトが額を押さえていた。まあ当然だろう。いかに庶民階級とは言ってもこんな挨拶されたら普通のご婦人は引っ越してきたことを後悔する。
 しかし、飽く迄も気丈な性格なのか、或いはこだわらないところがあるのか、女性は寧ろ嬉しそうにそれに応え、「ではまた」と言って帰っていった。
「美人だったなあ。独身かね、やもめかね」
 いつの間にかヤナギの注意は、歯から美人へ完全に移っている。
「どうせならああいう美人のために歯を抜きたい」
 いや、そうでもなかったらしい。




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