コントラコスモス -4-
ContraCosmos




「分かってるんだろうね、リップさん。幾らアンタが独身で、向こうが美人だからっていって、気軽に手を出したりするもんじゃないよ。
 男女関係にはすべからく責任ってもんがあるんだからね。あんたもいい大人なら、責任の取れないようなことはしちゃあいけないのは常識だろ」
 おや、「地獄の夫婦」のカタワレ。家主の奥方だ。
別段、彼らの頭に角が生えているわけではないのだが、彼らと話すと非常に消耗し、やりきれない気分になるという理由で、林檎が勝手に命名した。
 失礼だとは思うが、あまりにぴったりなので死滅しないで残っている。同じことを考えているのか、リップも説教の標的になっていると言うのににやにや不真面目に笑っているばかりだ。
「いいかい、女は敏感だから、男のちょっとした仕草でも気にかけちまうものなんだ。あんたが何の気なしにしたことだって、向こうにとっては不愉快だったりするかもしれないんだからね。外の国から来たばかりだってのに、困った目にあわせるなんて気の毒だろ。
 わかってるね、くれぐれも……」
 また間借り人が出て行くと、自分たちの収入が減って不便だと何故言えないのか。いかに常識や道徳をまぶそうが、どういうわけかその本心が見えてしまうのが、彼らとの会話の不思議なところだ。そういう意味では御しやすく、いっそ無邪気ともいえるのだが……。
 とりあえず言いたいことだけ言って、家主の妻は帰っていった。リップは始終笑ってばかりで懲りたような様子も無い。全く時間の無駄とはこのことである。
「いつものか」
「うん。でも今朝は酔ってないから、普通の薄さでいいな」
 いつもの調整ハーブを引っ掛けると、リップは特に何も言わずに出て行った。私も何も聞かずに、朝一の食器を片付ける。
 と、
「ミノスさーん!! なんなんですか、あれ?!」
 たてつけの悪いはずの扉をすぱーん、と開けて、林檎が飛び込んできた。眉をしかめたくなるような大声だ。
「なんだ、朝っぱらから……」
 不機嫌さを隠しもしないで言ったが、相手もこっちのことなんか構っちゃいない。
「リップさんが、三階のあの女の人の部屋に入っていったんですけど! 今!! なんですか、あれ!!」
 ああ。なんだ。
「そんなことでいちいち騒ぐな」
「ちょ、ちょっと、だって、一体いつの間にですか?! あの人が来たの、つい三日前のことじゃないですか!!
 サイテー!! サイテー!! 信じられない!!」
「……」
 一体、このバカ林檎は何に向かって怒っているのか。どうして春が頭に詰まった少女というのは、こういう、どうということもない事柄に一々激怒するのか不可解である。
 相手にするのも不毛なので適当にあしらいつつ、今日も仕事を押し付けていると、当のリップがまた上から降りてきてふらりと店に現れた。
 いつものことなのに、林檎の態度はがらりと変わり、まるで最後の審判の日の天使さまのごとく、自堕落なリップを睨みつける。そして奴の頭のてっぺんからつま先までことごとく眺めて、さらに怒りの証拠を探そうとするのだから暇である。
「……リップさん、なんかズボンのほつれ、直ってません?」
「あ? うん。なんかアガタが繕ってくれた」
 呼び捨てかあ!! との心の声が聞こえるようだ。
「…なんか、シャツも微妙に違うんですけど!」
「いや、洗濯してもらう間、別のを借りて…。…どうかした?」
「別にどうもしねえよ」
 尋ねられ、うんざりした顔で首を振る。
「だが相手は理屈なしの十六歳だからな。今日はなるだけ外にいた方がいいぞ、お前」
「あ、そう?」
 納得した素振りもないまま、リップはまた理由も無く出て行く。あの様子では一日中、庭でだらだら楽器でもいじるつもりだろう。
 怒り疲れたのか林檎は、これじゃこっちがバカみたいじゃないか、という顔をして、力任せに材料を作っていた。
 そこに気づいてくれただけでも、店主としては幸甚である。






 その日はリップが外へいたためか、常連が店にたまるということが無かった。用事のある人間はそれぞれやって来たのだが、入れ替わりになることが多く、マヒトもちょっと顔を出しただけですぐ帰っていった。
 勿論その際大嘘をついて、アールベジャン通りに同行してもらう約束は取り付けた。
「不治の病にかかって動けないご夫人が、心配する旦那に内緒で薬を届けてくれと言っているんだ。だがあそこの通りは不慣れでな」
「なんと! けなげなご夫人があったものだ! よし付き合うぞ!」
 ……騙しておいてなんだが、やはりあいつは聖職者に向いていない。
 午後五時を回り、林檎も帰ったので、そろそろ店を閉めようかと思っていた頃、扉が動いて来客があった。
 黒い目に黒い髪の毛。同性であっても目を奪われる。
 見事なものだ。南方系のためか、マラガ人の風貌には野性味がある。それで美人とくれば豹か猫を思わせた。
「こんにちは、お終い近くに、ごめんなさいね」
 アガタは両手に食料の包みを持って店の中に入ってくると、カウンターの上に銀貨を二枚差し出した。
「?」
 何のことか分からず顔を見ると、彼女はさっと肩掛けを羽織りなおし、
「リップがお茶代を大分ためているって聞いたので」
と言う。
「――」
 私は思わず喉の奥でうなってしまった。彼女が何をしているのか分からなかったわけではない。彼女にとってそれをすることが嬉しいのだというのも分かる。
 だが、それだけに、少し。
「……これはやめたほうがよさそうですよ、アガタさん。リップは別に無一文というわけじゃない。事実、家賃を払ってる」
 腕を組み、私を見る彼女の瞳を受け止めた。
「面倒くさがってここでは滞納してるが、あなたがこんなことをしなくてもそのうち払うでしょう」
 豹のような美しい目がちらりと光る。
「いいの。私がそうしたいのだから、受け取って頂戴」
「アガタさん、余計な口出しだと知れてますが、リップにあまりあれこれと構わない方がいいですよ」
「――」
「ああ、今の間は誤解だな」
 言葉の不便さに悪態をつきたくなる。
「リップは…、別にあなたとは何でもないと言っていたケド」
「だから誤解ですって。実際何もない。私は単純な老婆心で言ってるだけですよ。あれはろくでなしだ」
 投げることは投げたが、届かなかったようだ。彼女は冷めた目つきで私を見ると、カウンターの上からお金をぱしっと奪い取り、店から出て行った。
「…やれやれ」
 私は目を上に寄せて嘆息すると、心置きなく閉店の準備に掛かった。





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