コントラコスモス -5-
ContraCosmos




 私の住んでいる建物の屋根裏に居ついたリップという男は、ある種の職業に大変適した人間である。
 この男は自分では何もしないが、彼のことを放っておけないと思い込んだ他人の努力によってこの世を生き延びる。
 その「他人」は男でも女でも構わない。
そもそも屋根裏に住んだのだって、前にそこに住んでいた爺さんが当時宿無しだったリップを気の毒に思って、寝場所をかしてやったのが始まりだ(爺さんは半年後に死んだ)。
 ただ、養ってくれるのが女だった場合、自然と特殊な呼ばれ方をすることになる。
 ヒモ。
 これほど奴にぴったりな言葉もなかなか無い。
アガタは美しいだけではなくって、大変に働き屋で、根っからの世話好きといった女性だった。
 その彼女から見ると、奴などあまりに隙だらけで、いっそのこと川に蹴り落として全部を洗濯してやりたいというくらいの欲求は覚えたようだ。
 彼女はまず奴の伸び放題だった髪の毛を切り、爪を切り、錆だらけの剃刀を捨てて、毎朝彼女の部屋で髭を剃ることを命じた。併せて持ち前の裁縫の腕を生かし、わざわざ似合う服まで作ってやった。
 従って今のリップは二週間前とはえらく違う感じになっている。簡単に言うと、菱形の星がきらきら周りを飛び回る感じになっている。
 いかに鈍感なマヒトといへどもさすがにこの変化は見逃せない。もっとも、
「最近妙に金回りがいいんだな。何か悪いことでもしてるんじゃないのか」
心配は道を間違えてなにやら空振りをしているようだが。
 林檎はようやくリップが芯からこういう男だと気づいたようで、ものすごく不興げな顔をして、軽蔑の目で彼を見ていた。
 勿論、当のリップはけろりとしている。
女が愛情込めて作ったシャツをしれっと着て、同じ建物の一階の店に、毎日何の恥じらいも無くだらだらと出てくる。そしてだらだらと茶を飲み、だらだらとしゃべり、女が働いている同じ時刻に欠伸をしながら楽器を触って、相変わらず過ごしている。
 結末は見えていた。
最初からそんな関係性が到達する場所は決まっている。そっぽを向いた林檎も、苦りきった家主も、結局使わなかった毒をどうしようと考えていた私も、みんなが当たり前のように終わりを知っていた。
 多分、それを知らなかったのは先天的に物語オンチなマヒトと、アガタくらいのものだろう。
 その彼女も、単に酔っ払っていただけで本来は俗世に詳しいから、きっかけは一つで充分だった。
 日によっては雨が降るようにそいつは天から降って来て、立て続けに問題が起こり、一気にその話はおしまいを迎えた。




 それはこういうことである。
彼女は友人の紹介してくれた大きな仕立て屋で働いていた。ある日そこで、一人の上客から用心棒を雇いたいんだが誰か知らないか、という話を聞いたのだ。
 店の人間なら誰も、リップにその資質があるなんて考えはしなかっただろう。しかし彼女は我々が見たくもない奴の身体を見ている。
 条件は悪くないし、用心棒とはいえ客の期待も気休め程度で、それほど逼迫した護衛ではなかった。
 アガタは飛んで帰ってリップにそのことを告げた。かねてから、彼にはちゃんとした職を探してやらないと、と思っていたのだろう。
 それに、その日までに彼女はリップの衣服を変え、食事を変え、生活まで変えていた。だからきっとそこも変えられると思ったのだ。
 だが、リップは初めて彼女に逆らい、言った。
「しない」
 ――これはまあ、母親が息子のために差し出した薬を拒まれたようなものだろう。薬は苦いものだ。そこでバシッとしかりつけることが出来れば幸運だが、世の中「惚れた弱み」という言葉もある。
 アガタは多分自分でも驚くほどあっさりその提案を引っ込めた。もしかするとその時ちらりと何か見たかもしれぬ。だが細目に開けたドアの向こうに修羅場があれば、そっと閉めるのが人情である。
 違和感を忘れるために二週間ほどが必要だった。アガタ自身の心からもようやくその苦味が無くなりかけた頃、忙しくなってきた彼女は、今の住居が職場から遠いので、少しの距離ではあるけれども東の地区へ引っ越そうかと考えた。
 二つの部屋をほとんど一つにしていたのだから、それをリップに相談するのは当然だろう。勿論リップは反対などしなかった。しかし、アガタが彼も一緒に、と言い出すと、笑うのをぴたりとやめてそこから一歩も動かなくなった。
 アガタは最初、その反応をそれほど深刻にとらなかった。それとも、怖くて真面目に取ることが出来なかったのかもしれない。
 彼女は勝手に一人で部屋探しをした。周りの状況が詰めば、彼とてだらだらと着いて来ないはずがないと彼女は信じた。
 何しろその後もリップの様子は全く変らず、いらいらした仕草も、不快げな態度も皆無だったのだから、無理もない。
 しかしいざ事が決まり、平静を装って彼女が彼の同行を確認すると、彼は笑った。どれほど待っても、その唇から答えが漏れることは無かった。
 それは実際、変な話だ。
女の作った服を着て、女の作った料理を食べ、現に女の部屋にとどまりながら、男に自己主張の権利などあるだろうか。散々彼女の世話になり、身なりすら良くなった男が、どうして彼女を拒むのだろうか。
 アガタもその時点で筋を見失った。ストーリーの見えなくなった人間は大抵混乱する。 自分の話なのだから当たり前だ。
 ――私が嫌いになったの。好きな女でも出来たの。どうしてもここがいいという理由でもあるの。たかが地区が変るくらいのことなのに。
 彼女が年齢とプライドを振り落として騒いでも、リップの表情は変らなかった。甲斐の無い足掻きの果てにようやくアガタは気付く。リップの表情は初めから一度も、変わりなどしなかったのだということを。
 服は変り、風采も変り、生活も変わった。だが本体である男の存在は、最初の立ち位置から一ミリたりとも動いていないのだ。
 女の酔いに、亀裂が走った。だがそれが砕けた後も手からすり抜けることを認められずに、疲労で呆然としながら彼女は尋ねる。
「あなたは私のことが好きではなかったの? この先も一緒に暮らしていけたらいいなと思うことは一度も無かったの?」
 するとリップは初めて答える。身体を許した相手に対し、無礼なほど実の無い微笑を浮かべながら。
「今も思っているよ? 一緒に暮らしていけたらいいなあって。意味もなく」
「……『意味もなく』……?」
「ああもう……意味もなく……」
 それは大金が手に入ればいいのになあとのたまう酒飲みの希望そのもので、たとえそんな望みを口にしたところで、そいつは何一つ行動なんか起こさない。よし大金が手に入ったとしても、そいつにはやりたいことがない。
 では何故そう言うのかというと、希望を口にするのがこの世の付き合いだから口にするのだ。盛り上がっている相手に悪いから黙っているのだ。 それだけの、ことだ。
 世の中にこれほど不実な態度があるだろうか。
君のことなどどうでもいいと直に宣言するより遥かに遠い場所に、相手を突き放している。
 アガタも自分が見た夢がどのような現実で出来ていたか否応なく思い知り、五日後とうとう一人で、この建物から出て行った。
 また間借り人が出て行った! と頭を抱えている家主の苦悩をよそに、リップは今日も飄々と店に現れる。
 髪の毛は乱れ始め、顎にはもう無精ひげが見える。女がいなければ、奴はまたゼロ地点に戻るだけのことだ。
「いい子でいい人で、いい女だったよ」
「お前、そのうち刺されるぞ」
 扉を開いたばかりで、今日は林檎の来ない日なので、中には他に誰もいない。
 アガタに去り際「ミノスさんところのつけを払いなさい」と言われたらしく、奴は約三か月分のお茶代をカウンターに出し、私の台詞に薄笑いして、目を細めた。
「うん。それはそうかもしれん」
 そして、
「みんな俺のことをヒモヒモ言うが、別に俺は一度だって自分から相手にねだったことはないんだがな」
「……」
 それは、事実だろう。
アガタにも言った気がするが、リップは決して金を持っていないわけではない。やる気がないためそう見えないことがあるが、放っておいても一人で生きられる、人間らしい能力くらいは持ち合わせているのだ。
 だから私が難ずるのはそれではない。
そもそもリップが誰かに何かをせびるほど気を許した場面なんか想像も出来ない。例えば女性に愛を乞うシーンなど、どれだけ眉間に皺を寄せても出てこないように思える。
 寧ろ逆で、彼は望んでもいないくせに無造作に受け取りすぎるのだ。相手が男だろうと女だろうと、呉れるものが愛情だろうが憎悪だろうが、まるで構わない。
 同時に、乞われれば即座に胸を刺して100グラムばかり血肉を差し出す恥と躊躇いの無さ。
 その無理由は、愛に似ている。
それで一部の人たちがすっ転ぶのである。すっ転ぶのは事故でしかないが、問題は彼がその瞬間、飽く迄も冷静だということだ。一緒に転んでいるなら、おかしくは無い。
 だからこいつは遊び人でも、女たらしでもない。そんな関係性は成り立っていない。他人が一人相撲を取っているのを、傍で見ているだけのろくでなしだ。
 なのに、――どうしてなのか知らないが、リップは孤独ではない。常に誰かが彼の周りにあって、どれほどの強度かは関係なく、何かしら世話を焼いている。
 アガタも結局責めることなくこいつを許したし、あの生真面目なマヒトでさえ、リップのだらしなさには顔をしかめながら遂に嫌おうとはしない。
 全体謎だ。
ひょっとするとこやつはゲテモノの類で、何かつまらん芳香でも出ているのかもしれない。
 あまつさえ、今日も中庭で楽器をいじる奴の頭には、二匹の蝶々が停まっていた。



-了-



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