コントラコスモス -7-
ContraCosmos




 その日は土砂降りの雨だった。
マヒトは規律に従って午前四時半に起床。寝室で短い祈りを捧げた後、身の回りを整頓して部屋を出た。
 宿舎の回廊の床や柱は湿り、雨粒の砕ける音が天井にこだまし、それがまた反響する。耳の奥をかき回されるような凄まじい雨音がしていた。
 けれどもその泡沫に微塵も怯むことなく、彼のたくましい双肩は聖堂へ進む。周囲から浮き出した神父服は純粋な黒で、音も光も吸い込んでしまうかのようだった。
 誰もいない石造りの回廊を八分ほど歩くと、聖堂の扉がある。ポケットから褪せた銅の鍵を取り出し、鍵穴へ差し込んだ。
 ぎいいい……。
 湿気を含み、いつもより低い軋みでドアはマヒトを聖堂内へと導いた。
 ――聖堂というものは、すべからく神の身体の表現である。東へ向かって作られる聖壇は神の頭部であり、中央部は胴、右翼は右肩にあたり左翼は左肩にあたる。
 うつ伏せになった神、つまり人体の模倣でもある空間の中へ入ったマヒトは、周囲の暗さに目が慣れるまでしばらく扉の前に留まっていた。
 顎を上げる。ドーム状の天蓋から降ってくるかのような沈黙が体の中を流れていく。両足はしっかり大地を認識しているにも関わらず、空を飛ぶが如き浮遊感があった。
 やがてはりついた古の聖人たちのモザイクが、目の部分からじわりと浮き上がってきた。引き下ろして歩き出した頃には、暗いながらも周囲が見えるようになっている。
 左翼の一隅に、燭台を乗せるための石板を噛んだ柱がある。マヒトは燭台の側に置いてあるマッチを擦り、馴れた手つきで灯りを移していった。あっという間に一山の燭架を作ると、彼はそれを右手で持ち上げ、広い聖堂中を回り始める。
 開始点から左回りに、明るさが回復していく。とは言っても外に比べれば聖堂の炎は薄暗いものだが、それでも闇に慣れた目には涙が出るほど暖かい火だ。
 女たちの守護者である聖テオドラの立像に灯りを供し、目礼を捧げて立ち去ろうとしたその時、マヒトはふと視線の先に、告解室の信者側のドアを感じた。
 「感じた」というのは、変な言い方かもしれない。しかし彼はその時「見た」というより、確かに「感じた」のである。
 もしかすると僅かに開いた扉そのものではなく、それが中に包み隠した何ものかの気配を、生物の領域で察知したのかもしれない。
 マヒトは、コースを外れて壁際の告解室へ足を向けた。勿論薄めに開いている扉を閉めようとしてのことだった。
 扉の前に立ち、持ち物でふさがった右手を引いて、左手で木の肌を少し押す。扉は従順に、あるべき場所へ戻りそうに見えたのだが、彼が手を離すと、ゆっくりと反発し、前より広く開いてしまった。
「――?」
 マヒトはおや、と思って再び扉に手を添えた。蝶番の部分に、布でも挟まっているような感触がある。
 それで扉を引いた。
蝋燭の光が扉の影を濃くして、かえって中に何があるのか見えづらい。
 しかし何かがあった。マヒトはさらに扉を引いた。そしてインクが流されたように黒いその空間の中へ、燭架を持つ右手を差し入れる。
 はっ。
短い音を発して、一瞬呼吸が止まる。
 布。布。布。
三種類の重ねから飛び出している青白い手足。
そして乱れた頭髪。
 反射的に、マヒトは身を屈め、蝋燭を近づけ、狭い部屋の中で何とかその顔を見ようと全精神を凝らした。



 数秒後、マヒトの大きな体が小さな告解室から後ずさりして出てくる。左手が口元を押さえていた。
「……サリア」
 ため息のように名前が漏れる。首筋に手を当てたが、脈は止まっていた。死んでいる。彼女は死んでいる。
 三日前、話した。二週間前。三週間前。
 一月前には、夏至祭で。
「なぜ……」
 呟いたマヒトはしかし、そこで個人の感情を棄てた。彼は燭台を床に置き、信者用の椅子の間を入ってきた扉の方へ走り始める。必死に手足を動かしているのに、逆流を登っているかのように縮まらない距離がもどかしかった。
 扉を開けた瞬間、穴を穿つような轟音が雪崩れ込んできて、ちっぽけな彼の意識を劈(つんざ)いた。






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