コントラコスモス -7-
ContraCosmos




 珍しい日だった。
狂いまくりの店の時計が、二時五十分を指しても、三時を指しても、三時半を指しても、あの歩く時報男が店に現れなかったのである。
 もちろん奴とて毎日やって来るほど暇ではない。だが何か用事があって来られない時には、あらかじめそう話しておくのが性格だった。
 しかも昨日奴はヤナギの医師と昼間から心臓のことについて大論争をやらかし、今日やってきて自分の持っている医学書を一冊、店に預けていくことになっていた。
 それが来ないというのは、あの男の性根からするとかなり珍しいことだ。
「今日は一日雨だったが、明日はウサギでも降るかな?」
 窓際の椅子に腰掛けたリップが、流れていく水の模様を眺めながら笑った。その側で閉店の作業をする林檎は一人、真面目な顔だ。
「茶化さないで下さい。あのマヒトさんが約束に来ないなんて……。風邪でも引いちゃったんじゃないかなあ」
「それはない」
 リップと私で同時に否定したが、林檎さんは的外れな心配をするばかりだ。
 マヒトが病気? それこそ天からウサギが降る。日の出前から起きだして動悸の一つも無い上、坊主のくせ樵(きこり)みたいな体つきをしているあの完徹解剖男が風邪なんか引くわけがない。
 確かに自分から約束をしておいて来ないのは奴らしくないが、あれでも教会に仕える身だ。侭ならない用事の一つくらいあるだろう。
 気にかけず、背を向けて食器を戸棚に戻していると、店の扉が開く耳慣れた音と一緒に、
「あ、すいません。お客様……」
困惑した林檎の声が聞こえた。
「もう閉店なんですが……」
「それは好都合だ」
 ――聞き覚えのある声だ。
 というより。いっぺん聞いたらなかなか忘れられない声だ。今日は妙な日にも、程がある。
 私は戸棚を閉めて振り向いた。入り口のところに黒の外套を着流した、質量の少なそうな中背の男が一人。
「あれェ」
 壁際でリップが目を細める。
「お珍しい」
「元気そうでなによりだ。リップ、ミノス。それにかわいらしいお嬢さんまで。なんだか雰囲気が変わったね」
「構わん林檎、錠を閉めろ。
 ――なんの用だ、コーノス。今期の返済は問題なく済んでるはずだ」
「それは確かに銀行から頂いたよ」
 このプラチナブロンドを顎のラインまで流した中年の男――コーノスは、許可も取らずに濡れた外套を外しつつ、リップの前を通ってカウンターへやって来た。
「取り敢えず少し甘いものでも頂こうかな。この雨で外は結構寒くてね」
 と、スツールを引き寄せる。
「……」
 え? 言うこと聞くの? という顔で林檎が見ているが仕方ない。私は閉めたばかりの戸棚を開けて、またぞろ昼間の商売道具を取り出した。愉快そうに爪弾かれるリップの楽器の音がさすがに癪に障る。
「すまないね。景気はどうかな?」
「まあまあだ」
「それは結構。表の方は?」
「娯楽の範囲さ」
「なるほど。何も知らんようだな」
 コーノスは細い顎をそらし、急に声の調子を変えた。呆れたような台詞に確固とした情報の差を感じる。
「……何のことだ」
 落ち着いた建前の手元で、彼のお茶に入れる蜂蜜の量を倍加させた。土台、薬屋なんて人種は根が暗いものだ。
「ここにいないマヒト君のことだよ」
「あいつは今日は来ていない」
「当たり前だ。聖堂で拘束されてる」
「――……」
 あのバカ、とうとうバレたんだな。
 最初に考えたのはそれだった。何しろマヒトは夜な夜な人体解剖の集いを催すほどの急進違反坊主だ。石頭の倫理委に、数々の『悪行』がバレたに違いない。
 そう思った。だからコーノスが飽く迄冷静に、
「聖堂内で娼婦を殺した疑いだ」
と告げた時の驚きは二重だった。
「はぁ―――?!」
 三者三様の声が唱和する。
「マヒトさんがぁ? 人殺し?」
「しかも娼婦を?」
「……つーか、聖堂で殺人が?」
「うん」
 我々の反応がやかましかったらしく、コーノスは骸骨みたいな指で額の縁を押さえた。
「今日の早朝、懺悔室に他殺遺体が発見された。被害者は古くからキナリやサノー区で商売をしていたサリアという名の美しい娼婦だ。
 昨晩、聖堂を閉めた神父達は何の異状もなかったと話しているから事件は深夜に起きたとされている。
 第一発見者マヒト君は悪いことに彼女と知り合いで、さらに悪いことに彼女の聴罪僧でもあり、最悪なことに前夜渡された鍵を持っているほぼ唯一の存在だった」
 深夜。聖堂。僧と二人きりになる懺悔室に、信心深い美しい娼婦ときたか。
「下世話な想像には事欠かない材料だろう。そういうわけで彼が疑われているわけだ」
 私はコーノスにお茶を出すと、自由になった腕を組んだ。
「しかし性格が違いすぎる。アレには信者の女性に手を出すなんて甲斐性はまるでないぞ」
「そうだな、マヒト君という男をそれなりに知っている人間からすればかなり荒唐無稽な話なのだが」
「……何もそこまで言わんでも……」
 と、リップ。
「誰が奴が殺したなどと言ってるんだ?」
「彼の所属する区の同僚や上司たちだ」
「…………」
 沈黙の中で、視線のやり取りだけがあった。雰囲気を察することの出来ない林檎が、我々が怯んだものと勘違いして強い口調で言う。
「う、嘘ついてるんです、そんなの!」
「そうだね。お嬢さん。私も同感だ。だからここへやってきたと言うわけだ」
「はい?」
「ミノス。知り合いが疑われているんだ。少し力を貸したまえ」
「何で私が。あんたの部下どもを動かせよ」
「聖庁内で事件が起き、司教がとある人物を犯人であろうと判断して手続きに入っている。それを真に受けないで調査をするというとき、聖庁のモノを動かせると思うかね。勿論、一般警察は全く手出しできない。
 ――それにミノス。君が適任だ。
サリアは毒物による殺害だった」
 私は肩をすくめる。
「毒屋なんてそこらにいくらでもいる」
「まあ話を聞きたまえ。今回はその注入方が非常に特殊だ。
 毒殺をする場合には、飲み物に混ぜるか、刃物や針といった武器に毒を塗るのが一般的だろう?
 それ以外に生活に乗じて人体に毒を入れ込む方法は様々あるが、今回はそれのうちどれでもない。
 遺体には目立った外傷は皆無。鼻腔、口腔内からも毒物は検出されていないし、吐瀉も見られなかった。その他の部位――ま、お嬢さんの前で言うのはやめるが、別途可能性のある場所にも毒の名残はなかったのだ。
 ただ一点、腕にごく小さな穴が開いていた。従って彼女は皮下注射によって体内に毒物を注入されたと判断される。
 その後マヒト君の部屋から金属製の注射器が発見された。中にはこのような液状の毒物」
 コン。とコーノスの指の間に、手品のようにガラスの小瓶が現れた。全員の目がそれに注がれる。
「……」
「注射器は普段動物解剖の際、彼がよく使用していたものだ。何人もの学生がそれを証言していて覆しようがない。
 分かっているとは思うが、この物証は、彼にとって非常に不利になる。だから早々にこの毒物自体の解析をして、真犯人を挙げなければならない。
 ものぐさがっている場合ではないのだよミノス。友達を助けたければ、黙って私に協力したまえ」
 私はしばらくの間コーノスの顔を見ていた。この鉄面皮を相手に何らかの情報を引き出せるなんて思ってはいないが、感情だ。
「――断る。あんたの犬になる気はない」
「ちょ、ミノスさん! マヒトさんが火あぶりになってもいいんですか!?」
「え、火あぶりなの?」
 と、妙に冷静なリップ。
「あいつがどうなろうが知ったことか。自分のドジだ」
「し……! 信じられない! マヒトさんは大事なお客様じゃないですか! なんて冷たい人なの!」
「……」
「やあお嬢さん、この子にはそんな言い方じゃ効かない。もっとこう、曲がってないとね」
 口を挟むコーノスはなんだか妙に楽しそうだ。嫌な予感を抱いて私が身を引いたところに、彼が言う。
「――ミノス。私に協力してくれたらその報酬として、原負債額の20%を棒引きにする」
「む……」
「月の返済ノルマの額を少し下げてもよい」
「むむ」
「無事解決の暁には、利息を2%減らす」
「むむむむ」
「もし協力しない気ならば、今言ったことを全て逆にして実行するが?」
 ……クソ。なんて野郎だ。
 仮にも聖庁の人間のくせして、人の足元を見やがって。
「――くたばれ債権者」
 ぱし、と奴の手元から小瓶を奪い取り、私は悪態をついた。無論コーノスは平気の平左だ。
「バカ言っちゃいかん。私が君の毒物を使って自殺しないことを祈っていたまえ。その時真っ先に疑われるのは君だぞ。ただでさえ真っ当な扱いでないのだから」
 お茶のカップに手を伸ばして一口飲む。
「む」
 と、すぐに離して難しげな顔をした。そりゃあそうだろう。普通の五倍の蜜量だ。リップなら悶死している。
「うまいな。今度レシピをくれ」
「――」
 カウンターで脱力する私と、化け物でも見るような目つきをするリップの前で、コーノスはぐいと冷めたお茶をあおり、カップを受け皿に返した。
「では、私はマヒト君が内赦院で審議にかけられる迄の時間をなるたけ引き延ばすとしよう。
 ミノスは今晩午前二時に、東部第三墓地へ出頭のこと。遺体を見せる」
「一人同行者があるかもしれん」
「信頼できる人物か?」
 頷くと向こうも頷いた。
「まあいいだろう。但し相手は教会権だからな。くれぐれも注意してくれ」
「分かっている」
「報告は私に直接」
「へえへ」
 では話は終わった、とばかりコーノスは席を立った。それを林檎が呼び止める。
「あの! すいません。マヒトさんは今、どこにいるんですか?」
「ご心配なく、お嬢さん。聖庁内部の聖職者用の監視室に保護されてます。食事も睡眠も、きちんと与えられますよ。聖庁は世界一人道的な場所ですからね」
「よく言うよ」
「では、ミノス。君の負債を忘れるな」
 聖庁の参務次官にして、私の債権者たるコーノスは出て行った。全く不愉快な男である。これから降りしきる雨の中、私も出かけなければならないというわけだ。
「それにしても……、皮下注射とは」
 それだけでもマヒトのイメージとそぐわない。あいつなら女の細腕に血管を探す間に、両手でぐいぐい首を締め上げるだろう。
「キナリ、サノー区か」
 ぽろぽろ楽器をいじりながら、リップが歌うように言った。奴も何か考えているらしい。









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