コントラコスモス -8-
ContraCosmos



― 林檎 ―

 子どもなんて言いつけを破ってなんぼである。聖堂に近寄るな、と主人からはっきり言われていたにも関わらず、林檎は翌日、一縷の望みと小さな籠を抱いて大聖堂へ出かけた。
 丁度昼一課のミサが終了した時刻で、薄絹を被いた老婆や老人、敬虔な夫婦などが三々五々、家路へ着く流れに逆行して聖堂へ入る。
 石造りの聖堂は寒かった。今日は晴れて、外に初夏の陽光が照り溢れていても、この一角を煮る力はないようだ。
 思えば聖堂は墓場でもある。そもそも聖者の骨をその芯として建てられる上、古の騎士や王や司教が、壁や床下に設えられた大理石の棺桶の中に、実際横たわっているのだから。
 大きな礼拝堂なので、何人もの准司祭がそれぞれミサの後片付けをしたり、残った信徒たちの相談に乗ったりしていた。
 林檎はしばらく辺りを見回して品定めした後、彼女自身も何度か見かけたことのある、真面目で誠実そうな若い神父の一人に声をかけた。
「ごきげんよう、神父様。ちょっとお尋ねしたいのですが……」
「はい、なんでしょうか?」
 彼は椅子を整える手を止めて、上品な笑顔で彼女に答えた。林檎はあまり目立たないよう控えめな人格を装って言う。
「あの……。私、マヒト神父にお会いできるかと思って来たんですけど……」
「……マヒト神父ですか」
 若い神父は僅かに表情を曇らせ、両手を腰の前で重ね合わせた。
「申し訳ないのですが、神父は今、訳あって職務を離れているのですよ……」
「それじゃ、本当なんですか。マヒト神父が、ある女性が殺された事件の犯人だと思われているというのは」
 神父は驚いて言う。
「……お嬢さん、それをどこでお聞きになったのですか」
「私の父は小麦の商いをしていて、何人もの神父様とお知り合いなのです。どなたかからそれを伺ったようなのですが、はっきり教えてくれませんでした。
 ただ、私も父も、マヒト神父がそんな恐ろしいことをなさるなんてあまり意外だったものですから、何か誤解でもあったのではないかと思って……」
 言い切って、肋骨の下でうずく心臓を抑えつけた。どうだ。自分だって何も出来ないわけじゃない。
 体に普通の呼吸を強いながら、相手の反応を注意深く見守る。神父は目元に悲しそうな影を宿して、顎を引いた。
「……そうでしたか。残念ながら、マヒト神父が罪を疑われ、審問を受けんとしているのは事実です。しかしお嬢さん、それについては出来るだけ他言無用に願います」
「ええ、分かっています。誰にも喋っていません。
 でも、神父様は本気でマヒト神父がそんな、か弱い女性を殺したなんて信じてらっしゃいますか?」
「お嬢さん。ちょっとこちらへ」
 動き始めた同輩の姿にちらと視線をやると、若い神父は林檎の背中に手をやって、入り口脇の一番目立たない小祭壇へ彼女を誘導した。
「聖アゴステルが幻視に打ち克った時のお話をいたしましょう」
 青い目が目配せする。林檎は頷いて、逆らわず彼と一緒に地味な聖人の絵を掛けた聖壇の柵の前に立った。立つや否や神父は低い、けれどもずっと親しみの増した声で素早く言う。
「実は私は彼と同郷で、同じ年にこの神学校へ来たので、彼の人となりはよく知っています。今回のことは、私も全く信じられない思いです」
 思いがけないめぐり合わせに林檎は頬を染めた。
「嬉しいです! 他の皆様もそう思われたらいいのに! マヒト神父が女性を手に掛けるなんてなさるはずがありません」
「そうですね……。しかし、彼は非常に正義感の強い人です。もしかすると、女性の法外な行いにカッとなってしまったということもあるのかも知れませんが……」
「法外な? ……女性が、えっと、春を鬻(ひさ)ぐ職業の方だったということは聞いていますけど……、それが神父には我慢ならなかったと言うのですか?」
「……確かに、彼女は娼婦でした。しかしそれだけではなく、恐ろしいことですが、彼女はしばしば教会の中にもお客を持っていたらしいのです……」
 若い神父は恥ずかしそうだった。林檎は彼の心中を慮って咄嗟に目を伏せる。
「お嬢さん、告解室の中では……、まことに聞くに耐えない話などが飛び出してくることもあります。私でさえ、告解の誓いを忘れて相手の頬を打ちたくなったことが何度もあります。もしかするとマヒト神父は、彼女から聖職者との過去について聞かされ、その行為のあまりの涜神的なことに、我慢ならなかったのかもしれません。彼はそういう意味では……、少し融通のきき辛い人ですから……」
「…………」
 林檎は納得できない思いを抱えながらも、初めて出てきたその情報をうまく処理できず、眉をひそめた。思えば今まで、被害者の女性のことをあまり深く考えていなかったのである。
 マヒトが女を殺すわけがないという一心でここまで来た。しかし確かに彼は全面的にやや石頭な男だ。女性というものについても、例えばリップのように小慣れた考え方をしていない。
 そんな彼が、彼自身の信仰がひっくり返り兼ねないような懺悔話を聞かされたり、或いは狭い告解室の中で挑発されたりしたのだとしたら、多分顔面に朱を注いで怒る。
 いや、しかし、そうだとしても――。
「う……」
 林檎の思考は、その辺りでふいに焼きついてしまった。云々言うより先に、抑えていた感情が溢れだして歩みが止まる。
 理不尽だ。理不尽だ。とにかく何もかもが理不尽なのだ。どうして彼がこんな目に遭わねばならないのか。
 彼は何も悪くない。それは自明のことなのに、偶然そんな女と関わったばっかりにこんな疑いを掛けられるのだ。そんな罪の女がこの世にいなければ、マヒトが巻き込まれることもなかったのに。
 そう思うと、悔しくて熱い涙が目の縁に昇ってきた。
「……お嬢さん……」
「…………」
 林檎は黙ってハンカチを取り出し、目元に当てた。少し乱れた語尾でやっと、
「でも、違います」
と告げる。
「ええ」
 神父の優しい声が励ますように応えた。
「違うと、分かるんです。私の心が違うと言ってるんです。私は最後まで、神父の無罪を信じます」
「ええ……。私もです。お嬢さん、私はヒルデベルトと言います。もし何かマヒト神父に伝えたいことがあったら、またおいでなさい。出来る限りお力になります」
「ありがとうございます……。ごめんなさい」
「え?」
「泣いたりしてしまって。もう大丈夫です。
 神父様、もし出来るようでしたら、この籠をマヒトさんに差し入れて上げてくれませんか。出来なかったら、棄ててしまって構いませんから……」
「あ、はい。分かりました。ちょっと、難しいかもしれませんが……。どなたからと申し上げたら?」
「中を見ていただければ分かります、きっと」
「そうですか、承知しました」
 神父は小さな籠を受け取って、最後にまた目頭を拭った林檎の肩を二、三度優しく叩いた。
「元気を出してください。神は正しいものの味方です。もしマヒト神父が無実なら、審問で必ずやその疑惑は晴らされるでしょう」
「はい。ありがとうございます。じゃあ私……、帰ります」
 そう言うと、神父は入り口まで見送ってくれた。
 生ぬるい外界に戻ったとき、林檎はやはりまだ不安ではあったけれど、予想外の優しい味方を得られたことが湧き上がるように嬉しく、理由もないのに店まで走りたくなった。
 一度、立ち入ることの出来ない神学校の建物と、聖庁の巨大な『宮殿』を振り返ると、中に閉じ込められているという巨漢の坊主の身の上に思いを馳せつつ、林檎は全身に力を込めた。






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