コントラコスモス -9-
ContraCosmos




 地震が起きていた。
地震だ。
 夏の陽炎のようにとぐろを巻いた意識の果てに、ひどく冷たくて硬い天井がある。それを揺れる膝から下が擦っていく。
 然様。上下がぐちゃぐちゃである。
察するに頭が反対になっている。
 何か妙だ。それでいてとても楽だ。
思いながらも瞼は頑として開かなかった。それどころか冷ややかなその地面が心地よくてもっと寝ていたい。
 冷え切った綿のシーツの間に挟まれている時のような満足感。
 と、ふいにそれがなくなったかと思った矢先、体がぐるんと一回りして、まっとうな形となった。しかしながらあの感覚が忘れられない。
 首をのけぞらして余韻に浸っていたら、突然人の声がした。
「随分気分がよさそうだな。起こしてやれ」
 と、鼻腔に香りが漂ったかと思うと、粘膜に痛い針がぐさりと刺さった。飛び上がって二度と開かぬはずの目を開いたら、先ほどの楽しさはどこへやら、ありきたりのつまらない絵が意識に飛び込んでくる。
 石造りの部屋だった。
蝋燭の灯りが四隅を橙色に焦がしている。そこに何れも面識のある司祭たちが自分を取り巻いて立っていた。自分の立場も忘れてやあ何事ですと聞こうとした瞬間彼は、自らを縛る縄を体の周りと、手首の周りに感じた。
「……?! ん? なんだ? なんです、これは?」
 騒ぐと、吐き気が突き上がってきた。
瓶の底にたまったヘドロがかき回されるように、現を昏倒さす何ものかが血流に浮き上がる。咄嗟にマヒトは口を噤み、意識を守るために上体を折った。
「う……」
うめき声が震える歯の間から床へこぼれていった。
「お前が聖堂へやってきたときのことを覚えているなあ」
 かろうじて上げた目の、正面の僧服から声が降った。聞き覚えのある、馴染み深い年長の司祭のものだ。
「僕もだ」
 別の若い声も振る。回想を語る声だがそこには確かに、自由に回想する立場であるということを楽しんでいる響きがあった。
「あんまり生一本で朴訥なんで、俺たち上級生はみんな、あいつは大丈夫だろうかと心配したもんだ。しかしやはり、こんなことになってしまったなあ」
 短い黒髪の間に指が入り、マヒトの苦しそうな顔を無理矢理明るい方へ引っ張り上げる。彼は眩暈を起こしながら、ぶれる視界で相手を捕らえた。
 襟元までの美しい神父服。ほこり一つない真っ黒の布地。学者のように理知に満ちた、貴族のように落ち着いた蒼白の顔。
 全てが粗野で大柄なマヒトより聖職者らしく洗練されている。ところがその涼しげな唇で司祭は言う。
「最後の慈悲だよ、マヒト――。大人しく誰に話したか言いたまえ。そうしたらそうだな、せめて苦しい死に方は勘弁してあげよう」
「……え?」
 なに?
 マヒトはまだ分からなかった。あの雨の日の朝から今日まで受けた理不尽さと、今現在の理不尽さがつながっているということが飲み込めなかった。それほど、この場面は教会らしくない。自分が愛し、人生を捧げている神の家のものではない。
 これはまるで、キナリやサノーの売春窟の――
「もうとぼけなくてもいいんだよ、マヒト」
 男たちの暗い笑いが、石畳に反響した。
「どちらにせよ君は、運命から逃れられん。何も知らないなどと言っても、君に明日はない――」
「意地を張らない方がいいぞ。『真実の薬』を与えられた者の断末魔と来たら、親兄弟にも自分の遺体を見てもらいたくないような凄まじさだ」
 なんて楽しそうなんだ。楽しそうでいいなあと的外れなことを考えながら、マヒトは気がついていた。
 毒か薬かいずれかを体の中に入れられている。思えば今日は墜落睡眠だった。眠くなるのも妙に早かった。
 そういえばヒルデベルトが夕刻、林檎を―――。
「ヒルデベルト……?」
 海老のように折れ曲がった体から漏れたうめき声は周囲の男たちの爆笑を呼んだ。誰かの手がマヒトの背中を思う様叩いた。
「馬鹿なことをするな、マヒト! 彼が薬を持って来るんだぞ!」
「そうだ、彼を呼ぶなんて傑作だ!」
 ――意識が、揺らめく陽炎の下で急速に覚めていった。相変わらず体は動かない。だが、脳髄が自分の立場を理解し始めている。
「……ヒルデ、ベルトが……?」
「色男マヒト君。罪深いな! あいつがどれだけお前を恨んでるか、もうすぐ分かるぞ!」
 ……バカ面した神父の呼気がくさい。
馬鹿なことを。どうしてヒルデベルトが自分を恨むのだ。
 そう異議を申し立てながら、マヒトの血は凍っていった。安全と思っていた川の水位が意外に上がっていて、青ざめるのに似ていた。
「最初からお前さえいなけりゃ、サリアも死なずに済んだろうになあ!」
 ばん。
と肋骨に響く音がする。
 今のは。
今のは一体どういう意味なのだろう。
 そしてその気がないというより、あまりの気分の悪さにまともに話すことも出来ないまま、足掻くように十分が流れた。やがて部屋の扉が音を立てて開き、杏の香りの風と共に、人形のように固まった顔の親友が、マヒトの前に現れた。




*






 非常呼集の鐘を遠くに聞きながら、出来る限り人気のない道を選んで移動する。暑苦しいのを我慢して二人とも顔を布で隠していたが、有体に言って泥棒みたいだった。
 歩き始めて十分ほどした頃、あまり手荒なことをしなかったのが祟ったか、案内役の背の低い神父がどもりながら喋り始めた。
「お、お前ら、バカな真似はよせ。考えても見ろ、お前らはこのコルタ・ヌォーヴォで枢機卿様に楯突いているんだぞ――」
 子犬を扱うように襟首をつかんだまま歩くリップも私も、何も言わなかったが、相手はそれをどう受け取ったのかさらに調子付いて、にきびが吹きだす口元に卑屈な笑みを浮かべた。
「い、今からでも遅くない。僕がとりなしてやる。娘は返してやるから、これ以上、この件に関わるのはやめろ」
「へえ、とりなしてくれんの?」
 いい加減なリップの反応に、男は懸命になって振り向いた。
「そ、そうだ。僕はみんなから結構信頼されている。僕から娘を返してくれるように、兄弟たちに働きかけてやる。だ、だから……」
「信用できないねえ。その間にマヒトも林檎も殺されて俺たちも後追いってのが常道だろ」
「そ、そんなことはない! 我々は仲間になりたいという相手には寛大だ。そうだな、お前たちはコーノス卿に何か借りがあるようだが……」
 男の泥水のような眼差しが私を下から見る。機能はありながら何一つ映さない用無しの視力だ。どの世界においても、このような人種は不滅である。
「枢機卿だぞ? す、枢機卿。あんなちっぽけな男など一瞬で捻りつぶせる。どうだ、お前ら、僕たちの仲間に……」
「女も鱈腹抱かせてもらえそうだな」
「そ、そうとも! その通りだぞ、兄弟!」
 男が勢いづくのでリップの腕が揺れた。
「滅多に抱けないようないい女たちを回してもらえるんだ! き、気に入ったら金を払って自分の女にしてもいい。ナタリア枢機卿の元には、あの人の志に惹かれた女たちが幾らでも集まってくるんだ……!」
 リップの靴底が男の背中を蹴った。男はやっと自分の立場を思い出したらしく、一気にしゅんと萎みこんでまた負け犬へ戻った。
「なるほど、お前もそれで童貞におさらばさせてもらったわけか」
「…………」
「その訛りからしてお前はそこらの家の出だろ。自分の母親や姉貴と同じ立場の女たちをいじめて、何をいい気になってる?
――ほらどっちだ?」
 階段に突き当たった。
リップは今までにない乱暴さで男を壁に押し付け、それでいて冷たい声で上るのか下りるのかと男に聞く。男は震える手で上、と示した。
「お前知ってたのか」
 石段を登りながら訪ねると、リップは上から「ああ、うん」と細くなった目を見せた。
「教会に通う女たちが地元で商売しなくなると聞いたから、まあそんなトコロだろうと――。
 あ。そういやミノス、一つ聞きたいことがあった」
 緩やかな螺旋階段の壁を、足音と人影とが登っていく。
「女の子の体には、傷があったか?」
「無論だ」
 白い四肢に無数に刻まれた嗜虐の跡。彼女の体は使い古された雑巾のようだった。
 ヤナギの医師も私も互いに何も言いはしなかったが、遺体を一見すればサリアがサディストの相手になっていたことはすぐ知れることだ。やはりそれを知っていたらしいリップは続ける。
「新しいのは?」
「む?」
 そう言われると、途端に記憶が曖昧になり、私は地下室に横たわっていた遺体の肌を意識して思い返さねばならなかった。
「……いや? 特になかったぞ。ヤナギの医師も何も言っていなかったから、どこにも真新しい傷はついてなかったと思うが」
「ああ、そう……」
「……」
 私は目の回る階段を昇りながら、ちょっとの間、それきり黙ったリップの頭を眺めていた。
「……男がサリアを大事にしていたと?」
 僅かに見える横顔が虚無的に微笑する。
「うん……。まあそうじゃないかな。そうでなきゃ、そういうヤラレ体質の女の子をわざわざ注射で殺す理由がないような気がしてさ。普通の『客』なら、刺すなり締めるなり突き落とすなり、するだろう。
 ……ま、マヒトに疑いをかけるためだったのかもしれないけど、なんとなくそうかとね」
 言葉と入れ替わりに滑り込んできた沈黙の中で、しばらく三人分の足音だけが鳴っていた。やがて小男がしぶしぶながらに指し示す部屋にたどり着くと、我々は眉をしかめねばならなかった。
 灯りはついたまま、部屋の扉は開け放されている。リップが走りこむようにして中を窺うも、当然巨漢の神父の姿はなく、寝乱れたベッドが誰かが確かにそこにいたことを我々に教えてくれるだけだった。






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