コントラコスモス -9-
ContraCosmos






――神父様。軽蔑なさいますか?
私のことを身請けしてくださる いう方がいるのです。
相手の方のお心をとても
 とてもありが く思っていますけれど
神父様、私のことを汚い女だとお思 になりますか?







 杏の匂いがする。
 間近にある友の顔が、二重に見える。いつもと同じ顔、いつもと同じ声、いつもと同じ友達――
 だのに腕に突き刺された針の感触に、悲鳴を上げそうになる。男たちの掌がばらばらに彼の体を押さえた。
 不快な、何か判らない悪いものが有無を言わさず体の中に入れられていく。マヒトは鳥肌を立ててうめいた。
 遠い場所から自分の姿を冷静に眺めている自分がいて、そいつはこともあろうに自分の立場と娼婦の立場を連想で結び付けようとしたりして。
 ようやく針が抜け、男たちの手が離れた。
 マヒトはあまりの吐き気に上体を保っていられず、前につんのめったところを誰かの胴に突き当たってようやく椅子から落ちずに済んだ。
 砂漠を歩くような苦労をしながら汗だくになって目を上げると、それはヒルデベルトだった。
「…………なん……で……」
 今の今まで彫刻じみて無言だった彼の顔が、その疑問に歪む。それすら懐かしい歪み方だった。
「今更……『何故』もないだろう、マヒト。我々は、君が我々のことをどこまで漏らしたか、それが聞きたいんだ。
 君は五分もすれば従順に話してくれて、十五分もすれば意識がなくなるだろう。
 ……そうだ。まだ真っ当なうちに一つだけ伝えておこう、気になるだろうからね」
 ヒルデベルトは知性的な手で自分の注射器をケースにしまい、硝子細工でも見下ろすような目でマヒトを眺めた後、彼の両肩に手をかけて椅子の背もたれへ戻した。
「林檎を届けてくれた女の子は我々で責任を持って面倒を見させてもらうよ」
「……?……」
 汗だくのマヒトは薄目を開ける。
「さっき聖庁内をうろうろしていて衛兵に捕まった。どこから入ってきたのか知らないが、君を助けようと思ったらしい。二度手間になってしまったが、まあよかったよ」
「―――!!」
 これ以上悪くはなりようがないだろうと思っていたところをがあんとぶん殴られて、マヒトはかえって感心してしまった。まだ先があったのかと。
「林檎?! 林檎はどこだ?!」
「……っと、すごいな。あの薬を飲んでこんなに元気な人間は始めて見た。ところで、林檎というのが名前だったのか?」
「あの子は無関係だ……! 巻き込むのはやめろ」
 ヒルデベルトの目が冷たくなる。
「無関係? そんなはずがない。彼女はお前の行きつけの店の店子だそうじゃないか。早い段階から事件を知っていたのはともかくとして、どうして被害者が『娼婦』と知ってる?
 外部の人間が最後まで知るはずのない情報だ。教会関係者であればあるだけ、その一点だけはどんな俗人にも話すわけがない。お前が彼女に話したのでなければ、誰が話すと言うんだ」
「一体何のことを話してるんだ、ヒルデベルト! さっきから何の話をしてい……」
 ばん。 と横から飛んできた平手が頬を殴りつけた。
 今度こそ椅子から転げ落ちる。
側頭から石床へ落ちて、奥歯ががちんと鳴る。同時に、額から出血する感触があった。
 頬が冷たい。いや熱い。乱れた呼気の中で、マヒトはぼんやりと、何かが瓦解していく物音を聞いていた。
 足しか見えないヒルデベルトが言っている。
「とぼけるな。お前はサリアから聞いているはずだ。
 なぜならサリアはお前を愛していた」
 床でマヒトはぼんやりと目を開いていた。杏の匂いがする。
「この私より。この私が彼女のことを……、一生かけて保護してやると言ったのに」
 ああ、杏の匂いがする。





*





 何をおいても時間が無かったので、犬のような小男を脅しまくって普段の会合の場所を聞き出した。そんなものはコーノスが調べればいいだろうと思っていたが、こうなっては仕方がない。
 これ以上この件でヘマったら、私の負債が増大してしまう。今でさえけちけちしないではやってられないのに、これ以上懐が淋しくなってたまるか。
「しかしまあ、大聖堂の地下とはね」
 リップが回廊を走りながら呆れた様子で呟いた。
 確かに大聖堂は夜課さえ終了してしまえば無人となるし、聖庁の宮殿とも僧房とも離れているから鍵さえ持っていれば秘密の会合にはもってこいだ。神の罰さえ恐れなければの話だが。
 結局、ナタリア枢機卿は地獄の炎のことなぞ信じていないのだろう。いや、そもそも今時、聖典の記述と勧善懲悪の掟など信じている方が少数だ。
 コーノスが言ったように我々は聖職者に期待する。しかし最も有能な聖職者が集合するコルタ故に、原初の盲信は意識的に保護される形(「倫理委員会」とか)で残存しているに過ぎない。
 聖書や宗教は世の正義を説き、悪が滅びる過程を説くが、実際の世の中ではどうだろう。善良な魂を持った真面目な人間が尊敬されているだろうか? 節制を知る、地味な人間が軽んじられないで済んでいるのか?
 人々から財を吸い上げ、騙し取った人間は軽蔑されているか? 虚飾に耽り、金銀で全身を固め、流行の服に身を包んだ金持ちは不人気だろうか?
 神の正義を信じれば、現実の理不尽と矛盾に苦しむ。ナタリアはそんなものに頓着しない。世の汚さに煩悶しない。その迷いの無さが、彼女に成功を運ぶのだ。
 だが、あの石頭のマヒトがそんな話を受け入れるとは到底思えなかった。恐らく今ごろ自白を迫られて……薬を、使われる前だといいが……。
「見張りだ」
 リップが柱に身を隠すので、私もそれに続いた。深夜の全力疾走に不整脈が来ていて、忌々しい。
「マヒトはどうやらここらしいな。さて、どうしようか……」
 扉の前に見張りの僧が二人。呼子らしきものを首からさげているのを見て、リップが振り向く。
「何か薬ないの? 眠りの霧みたいなの」
「アホ。こんな広い場所で使えるか。飲ませりゃ別だが、薬片手ににじり寄っていったらものすごく怪しまれるわ」
「そうだねえ。うーん……」
 と、その時、僧房の方角で一際けたたましい非常呼集の鐘が、辺りに鳴り響いた。今までの鐘は全て聖庁内部で鳴っていたが、今回のは近場だったから回廊を通って聖堂前まで響いてくる。
「おっっ」
 我々も驚いたが、見張りはもっと驚いた。何が起きたかはよく分からないが、とにかく人々が起きてきそうな事態だ。夜間立ち入り禁止の聖堂に自分たちがいることが知れたら面倒になる。
 辺りをきょろきょろ見回しながら、しばし相談していたかと思うと、彼らは迂闊な選択をした。一人が内部へ異状を知らせに走り、一人が僧房へ様子を見に戻ったのである。
「コーノスの旦那は有能だね」
 リップがほとほと感心したように首を振る。多分あのカラスは、部下からマヒトが許可なく連れ出されたことを知らされて、気を利かせたのだろう。
「債権者としては最悪だがな」
「行きますかねえ」
「ん」
 柱から飛び出し、扉にたどり着く。薄く開けて中へ入ると、昼にも増してひやりとした空気が、高い天井まで一杯に詰まっていた。
 聖堂内に灯りはない。ただ、ちょうど中央辺りに位置する豪奢な説教台の腹の部分から薄明かりが漏れ、天使たちの透かし彫りを下から照らし出していた。
「…………」
 ここまで来たら、無傷では帰れない。監視室に閉じ込められている時は見張りだけを何とかすればよかったが、恐らく中にはもっと多量の人間がいる。
 今更作戦を練っても仕方がないな。と目で伝えてきたリップは、小さく頷いて走り出した。仕方がないので私も腰につけた袋を開いて薬品を取り出し、後に続く。
 小さな扉を開いて見えたのは、下へ続く狭い階段だった。微かに甘い匂いがするな、と思うやクソ、とリップが悪態をついて降りて行く。
 足音はなかった。どこかで消す訓練を受けたらしかった。ちょうど私と同様に。
 二十段ほどの階段の終わりまで、運良く誰にも当たらずに済む。広間に出た瞬間、私は布を突き通して強烈になった甘い匂いに驚いてあたりを見回した。
 広間には東西に一つずつ扉が、中央に祭壇があった。決して一般信徒が礼拝を捧げることのない、聖堂における「本物の」祭壇だ。
 つまりここにはこの聖堂の核であるところの、聖人の遺物が修められている。コルタ・ヌォーヴォの聖堂が掲げているのは女性では聖母に次いで高位とされる、聖テオドラの遺骸のはずだ。
 とは言っても、本人の存在は神話時代の話だから、その信憑性たるやかなりあやしいものだ。しかしこの溢れんばかりの匂いは一体なんだろう。地上にある聖テオドラ像のように、信者が香を焚いている様子はないが……。
 リップも合点が行かない様子で地味な祭壇に一瞥を投げたが、気配を察して西の扉の脇へ張り付いた。
「……は一旦行きます。お気をつけて……」
 若い声が聞こえ、扉から溢れる光が祭壇をさっと撫ぜた。何も知らず出てきた若い坊主の目の前に、ものも言わず私が立っている。
 彼が呆気にとられて立ち尽くした瞬間、リップの手刀がその首根っこに落ちた。唸り声を発して坊主が床へ崩れる。彼が下へ行ったので私の前に部屋の中の光景が開けた。
 不快なのであまり詳しく書かない。ただまあ言えるのは、三メートル四方ほどの部屋に六人の男と三人の女がいたということだ。火事が起きたら何人がそのまま逃げられるやら。
 手前にいる林檎は猿轡に手縄とはいえ、とりあえず衣服はまだ剥がされる前だった。それだけ確認してまあ良しとし、私は手にしていた薬の瓶を二つ、唖然とするサルどもの中へ投げ込み、尚且つ起き上がりかけた坊主を押し込むようにして扉を強引に立て切った。
 リップが隣に来て一緒に扉を押さえる。中からはわーとかぎゃーとか声がしたが、やがて二分もすると、無気味なほど静かになった。一人一人片付けているより絶対楽だ。こういう狭い部屋でないと、効果がないのが難点だが。
 すっかり静まった頃、
「ああイケナイ林檎ちゃんも眠らせてしまったわ」
棒読みで私が言うと、連れは流石に白けた顔をした。
「絶対ワザとだろ、お前」
「まあ、マヒトが立てれば後で一緒に連れ出そう」
 二人して離れると、今度は東の扉へ向かう。
 こちらは比較的静かだった。少なくとも乱交をしているわけではなさそうだ。
 勧めたナイフを断るリップと一緒に、私は扉ににじり寄って聞き耳を立てる。 それほど人数がいる様子ではなかった。
 一人盛んに話している男がいて、それが「マヒト」と名前を呼んでいた。
 思わず目を鋭くさせてリップを見ると、彼の方は「そんなに怖い顔すんなよ」といった調子で見返してくる。
 同様に投げ薬を使おうと掌にガラス瓶を滑らせたが、それに応じてドアを開こうと側に立ったリップが、ふいに待て、と掌を構えた。
 注意は中で交わされている会話に向けられていた。
私も気勢を殺がれた顔のまま、つられて扉に耳を近づける。
「あの少女はお前の何なんだ? 恋人か?
 お前にそんな真似が出来ようとは思ったことがなかったよ。だがなんでも、夏至祭では女性と踊っていたそうじゃないか……」




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