コントラコスモス -9-
ContraCosmos




「あの少女がそのお相手だったのかい? 想像と少し違ったな。サリアはお前と同年代くらいの女性だと言ってた」
 薬の効き目が現れるまでの間、いささか気が緩んだのか、神父ヒルデベルトはマヒトの前の椅子に座り、瞬きの少ない目で応えのない話を一人、続けていた。
「……サリアはな、お前があんまり楽しそうに踊っているから、見てて羨ましくなったんだそうだ」
 彼の向かいの席でマヒトは顔を伏せ、うんともすんとも言わない。血で汚れた瞼は彫像のように閉じられていて、いっそ疲れて眠っているようにも見えた。
「きっとあの人は、自分自身に恥じるところがないんだ。どんな時にも嘘をつかず、甘えず、一生懸命で、きっと太陽の前に出ても、何一つ言い訳する必要のあることなどないんでしょうねと」
 多分、このことをマヒトに話したくて話したくて彼は長いこと我慢していたのだろう。死んだ女の話を続けるヒルデベルトは必死で、本人は気づいていないけれどもかなり危なげだった。
 事実、周りを取り巻いている聖職者たちの眼差しは決して暖かくない。しかし青年は熱に潤んだような目で、それでも話をやめなかった。
「俺だってサリアが迷っていることくらい知っていた。あの女は本当にバカみたいに人が好くて、女たちの働きで儲かった金を使って自分だけが自由になるのが心苦しかったんだ。
 だから俺は言ってやった。何も気負うことはないし、何も恥じることはない。自分たちは神に仕える身で、売春以外に術のない娼婦たちに通常以上の待遇を用意してやっている。これは神の御心にも適うことなんだと。
 ……それなのに、サリアは、お前に相談をして……。私の言葉より、お前の言葉の方を信用した……」
「もういいだろう、ヒルデベルト……」
 一人の神父が輪から進み出て彼の肩に手をやった。
「いつまでも死んだ女のことでくよくよすんな。まあな、お前にとっては最初の女だったから忘れがたいかもしれないが、めぐり合わせが悪かったんだ。俺も悪かったよ、な? あの女を最初に紹介してやったのは俺だったものな」
「…………」
「これから何人もの女に触れればそのうち忘れる。大丈夫だ。そのために、わざわざ自分の手で形をつけたんだしな」
「…………」
「そろそろじゃないか? おい、マヒト。おーい。どうだ?」
 神父の気安い手が代わってマヒトのうつむいた頬をぱちぱちと叩いた。それに反応して、髭が見え始めた顎が上がる。
 なんだか血色がよくなっているような気がして、『?』と体を引いた神父を無視して、マヒトはかつての友に――今となっては――、掠れた声で尋ねた。
「……どうもよく、分からない。一つだけ、教えてくれ」
「……なんだ?」
 落ち着き払った声でヒルデベルトは受ける。些か悲しそうに目を細めたマヒトは、言った。
「……サリアを殺したのは、お前なのか」
 目は笑っていなかった。しかし口元でだけ笑って、ヒルデベルトはそれを肯定した。
 沈黙が流れる。
「…………」
 そうか。それが。
お前さえいなければサリアは殺されなかったという台詞の理由か。
 奥歯を噛み締めた。顎のことなど考えもしないで、無知だった自分を捻り潰さんとぎりぎりと歯を鳴らす。
 その異様な様子に怖気づいたかのように神父が浮き足立ち、ヒルデベルトを見やった。
「何か変じゃないか? 薬が効いていないんじゃないか?」
「……そんなはずはありません。投与量は間違えていないはずで……」
「…………のに……」
「なんだ? 何を言ってやがる」
「ヒルデベルトォッッ!!!」
「――うおっ?!」
 突如、前に立っていた神父の体がヒルデベルトに突っ込んできた。いや本当は、マヒトが椅子を蹴って、こっちに体当たりをかましてきたのだ。
 全く予想外だったので挟まれた神父は言うに及ばず、ヒルデベルトも椅子ごと後ろへ吹っ飛ばされる。椅子と体が倒れこむ音が低い天井に跳ね返った。
「何だ、こいつは?!」
 周りの連中が驚愕して駆け寄ってくる。驚くのももっともだ。死ぬか生きるかの自白剤を投与されて、この有様は何事か。
「化け物か!」
 打った後頭部の痛みを堪え、神父の体を押しのけて体を起こした頃、耳には別種の悲鳴が聞こえ始めていた。
「ぎゃっ!」
「な、なんだお前た……!」
 部屋の中に、眩暈がするほどの杏の香り。それと一緒に滑り込んできたのは、顔を隠して誰とも分からない人間二人だ。算を乱した同僚たちを慣れた手つきで次々に倒していく。
「神妙になされよ! 貴兄らの行いは教皇猊下のお耳に達し、猊下はご不興である!」
 聞き逃すことの出来ない言葉まで飛び交い、一体どういうことかと慌てた三人の顔が、男によって蹴り飛ばされる。
 彼をこの地下室に引きずり込んだ聖職者たちが一人、また一人と倒れていく中で、ヒルデベルトは逃走を選んだ。
 それに気づいた闖入者の一人が、ものも言わず自分に向かって何か投げつける。それは蓋の開けられた小さなガラスの瓶で、ものは胸板に当たって中身がこぼれた。勿論彼は構いもしないで部屋から脱出した。





*





「動くなよ、縄解くぞ」
 真っ赤な顔して床に転がっていたマヒトの上に屈み込み、リップが縄目に手をかける。当のマヒトの方は訳がわからなくなっていると見えて、
「お前、誰だ?!」
などと噛み付く始末だ。
「ご挨拶だなあ。リップ君だよーん」
 と、片手で器用に顔を晒す。
「え? あ! じゃあ、そっちはミノスか?」
「助け甲斐のないやつだ」
 同じようにした私の顔も見て、やっと安心したらしい。長時間縛られていた上に、最後の無理が祟って赤くなっている手首をさすりつつ、マヒトは立ち上がった。
 馬鹿になっている足を問答無用で動かすものだからもつれて、よろよろしながら向かう先は出口である。珍しく察しがいいと思ったら、
「ヒルデベルト!」
と、全く我々の苦労を意に介さない行動に移るのが実にマヒトらしい。
「あのー。俺らがここで下手に捕まったりしたら、コーノスの旦那は立場がなくなるんですが」
「聞いちゃいねぇな」
 子どもの面倒を見る親の心情で、二人ともやれやれとマヒトの後を追った。
 それにしても彼は「真実の薬」を投与されたのではなかったのだろうか? さっき逃げた若いのがそんなことを言っていたように思うのだが。
 神のご加護か投与ミスか、単にマヒトが化け物なのか。だが今日ばかりはのろまな彼に追いつき、三人一緒に通常の聖堂へ戻ってきた。
「もう逃げたんじゃないの?」
 リップが言うが、私は首を振った。
「いや、その辺でヘタってるだろう。悪いものを吸わせたから……」
 暗い礼拝堂の中を見回す。やはり一番真剣なマヒトが最初に、信徒用の座席の列と列の間にうずくまる神父ヒルデベルトの黒い姿を認めた。
「悪いやっちゃねえ、君は」
 リップの感想など無視する。
 マヒトは彼のもとへ駆け寄り、ぜいぜいと呼吸しているヒルデベルトの肩を赤い両手で力任せにつかんだ。
「何でだ! 何でお前、こんなことを!!」
 揺さぶられるヒルデベルトは、マヒトと違って普通の男だ。体も大きくはないし、鍛えてあるわけではない。並外れて鈍いわけでもなく、知恵も、感覚も、迷いも野心も、……少しずつ持っているのだろう。
 マヒトみたいな何も知らない男にどうしてだと責められたって、笑うしかない。だから彼は、ひどく苦しそうに笑った。
「何故って……。どうしようもなかったのさ……。お前には分からない……。
 ただ俺は……、教会に来ていたサリアが美しく見えて……。それを抱かせてもらって……、もう後戻りなんぞ出来なくなったよ」
「ならどうしてサリアを殺した! 愛していたというなら、どうして彼女を救ってやらなかったんだ!」
「…………」
 聞いてるだけでもため息が出た。マヒトは、正論に過ぎる。
 私やリップなら、詳細など問いたださず、罰だけを与えるだろう。しかしマヒトは罰を与える気はなく、その過程を話せと言うのだ。
 それは単純な罰などより相手にとってずっと厳しい場合があるだろう。特に今回のように、ご丁寧にも自分が大事にしていた女を殺さねばならなかったような場合には。
 ――まことにこいつは、向いていない。
「お前の言うことは変だ! サリアが大切だったというのなら、身請けの矛盾に彼女が苦しんでいる時何故別の手段を探さなかった? 俺に相談したからってそれが何だ! そんな些細なことで命を奪うなんて、一体何を考えているんだ!」
「やめろよ、マヒト」
 見かねてリップが止めに入る。そもそもマヒトが知らないのではないかと思われる情報もある。
「彼は教会内部の組織売春に巻き込まれていたんだ。お前の友達なら、多分真面目で有能だったから目をつけられたんだろう。サリアを釣り餌に引き込まれちまったんだ。
 サリアはその組織の秘密をお前に漏らそうとした。だから組織の要求で殺された。誰が責任を問われて、後始末をさせられたか分かるだろ?
 組織はこういう時に忠誠心を試す。彼としても、どうにも出来なかったんだ。相手は枢機卿なんだからな」
「枢機卿……?」
 やはりマヒトはど真ん中にいたくせ、最後の最後まで蚊帳の外だったらしい。事実を知らされて床に打ちひしがれる友を見る。
 さて帰るか、と気を抜きかけた我々はしかし、次の瞬間再び発されたマヒトの大声にぎょっとさせられた。
「枢機卿に命令されたから殺しただと――?
 ……恥ずかしくないのか?! 神の掟を破って彼女と通じたくせに、今更枢機卿の言葉に屈するとはどういうことだ!!
 お前の自我はどこにあるんだ! お前の信仰は、恥はどこにある! 神よりも枢機卿を崇める神父がどこにあるか!! 何のためにお前は毎日聖書を読んでいるんだ……!!」
「…………」
 為す術もなく、大聖堂の中に反響するマヒトの怒声を聞いていた。全く駄目である。マヒトに手加減や技術などを要求した自分たちが馬鹿だった。そもそも彼は、そういう類の人間ではない。
 怒るときには、全身で怒る人間だ。
「……お前に何が分かる。何が分かる……」
 真剣な態度には真剣に応じねばならない。だからマヒトは暑苦しい。特にこちらが弱っているときには、張り手を飛ばしたいほど鬱陶しい。
「俺は最後の最後までサリアを救う気だったんだ! 言われなくてもそうしようと……!」
 それだのに最後にはそれに釣り込まれて、こちらも心情を吐露してしまう。小賢しさとは縁のない、ヒトという名前の人間。
 これはそういう男なのだ。
「それが……! それが何だ! あいつは謝りやがった!!」 
 ヒルデベルトは床の上で空をつかんで絶叫した。温厚な外見から想像も出来ないような、血を吐く悪い傷のような声だった。
「謝りやがったんだ! 『ごめんなさい』と! それがどういうことか分かるか?! あいつは俺など……、結局俺など愛していなかった! あいつが愛していたのは別のでくの坊で、それだから『ごめんなさい』なんだ!」
 歪みきった眉の下で、目から涙が溢れ出しそうになっていた。
「いいさ! ……べつにいいさ……! 俺は別に……! お前を泣かそうなんて一度だって……!!」
 ヒルデベルトの両手が、頭をつかむ様に、髪の毛の中へ入る。
「何で謝るんだ! 何で謝ったりするんだ!!
 俺はこれからお前を殺そうとしてるのに!
 それを聞いた途端、俺はもう訳がわからなくなって……」




その上厄介なことは、
そんな本性を持ちて尚、
をんなは聖女であるといふことです。




「…………」
 嗚咽が、暗い聖堂の天蓋へ吸い込まれていった。マヒトはさっきまでの怒鳴り声が嘘のように黙って彼を見つめていたが、やがて立ち上がると上から天啓のようにぼそりと言った。
「懺悔の時刻だヒルデベルト」
 その横顔には、血の跡が赤黒く残っていた。
「ざん……?」
 虚を突かれたようなヒルデベルトの腕を、マヒトは諾否も問わず掴み、彼を立たせようと、或いは引きずろうとする。そして唇には、聖典の一節を乗せ始めた。
「我中心なり末節なり個であり全体なり而して人は遍く我が子なり」
 何が起きるのか理解できなかった神父だが、視界に穏やかな微笑を浮かべて立つ聖テオドラの立像が入ってくると、まるで傷に触れた患者のようにびくっと全身を強張らせ、必死で彼を振りほどこうとした。
「や、やめろ!」
 私はそれを見ながら考えていた。どうしてサリアの遺体の……、内部から、テオドラの聖廟に漂うあの香りと同じ香りがしたのかと。
 空っぽの胃。死後二日か三日。
そんなものが、するはずがない。
 そしてヤナギの医師が「滅多にない」と言った優しい死に顔は、似てもいないのにどういうわけかその女性を連想させた。
「汝どのような罪業の有りと雖もひとえに自ら悔い……全てを我の前に告白するなら何故我の汝を憎まん」
 構わず聖女の前に進むマヒトだが、恐慌に囚われたヒルデベルトは全身で抗い、とうとう手が外れた。
 それに気づいたマヒトはむ、と眉を顰めるといきなり上から彼の襟をつかみ、今度は本当に引きずり始めた。
「がああああぁっ!」
 ヒルデベルトが手を振り回して悲鳴を上げる。
それでもマヒトは進んでいく。
容赦も、間断もなく聖句を呟きながら。
 それを私とリップは、大層恐ろしいものでも見るような眼差しで、
知らず息を呑んで、
見つめていた。
 とうとう罪人は、微笑む「彼女」の前に引きずり出される。 床に両膝と両手をつき、その中に頭を入れ込むようにしながら震える彼に、立て膝をついてマヒトは囁いた。懺悔の前にいつも信徒に告げるように厳かで且つ、私心のない断固とした責任を込めて。
「神父ヒルデベルト。聖女の前に正直に自らの罪を語り、あなたの犯した罪の赦しを乞いなさい」
 そして今までとはまるで違った強さで、彼の肩に触れた。
「私が半分を背負って狭き門の前まで共に行きます。だから行きましょう。
 主は変わらずあなたを愛し、あなたが戻ってくるのを心から待っておいでです。
 怯えることなど何もない。
犯した罪を全霊で悔いるなら、
……あの人は必ず赦してくださるのだから」
 リップが見たくないものを避ける速さで、つと視線を彼らから反らした。その鼻先には東、神の頭部にあたる豪奢な祭壇がある。彼は青い目でしばらくじっと、闇の中に両手を広げて立つ主の立像を眺めていた。







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