コントラコスモス -9-
ContraCosmos |
聖テオドラは、はっきりした記述を避けられているものの、恐らく男相手の商売をして暮らしていた女であった。それが主の教えに触れ、自らの過誤を悔い、出家したことで後に聖女となった。 従って彼女は弱き女たち、特に娼婦たちの守護聖人であるが、聖書の中でさえ、他の聖人たち(例えば主の直弟子)には嫌われ、軽蔑されていたことが分かる。 さて目の前にいるこの女は既に今時分「聖女」と呼ばれる。彼女には溢れる才能があり、美貌があり、財がある。人はこう言った女を「聖女」として崇めたいらしい。 現実に聖テオドラは崇拝されているのに、今も娼婦はあちこちで嫌われ、一般の店に入ることを禁じられ、しまいには「聖女」に利用される。 これは恐らく人の世が続く限り存続する誤謬であり、人間はいつも最も身近な真実については盲目なものなのだ。神を信じ、教会に通いながら実際、どこにその奇跡が現れているかは、容易に気付くことがない……。 「それでは、飽く迄もカリナントス大司教以下の十数名による暴走だと仰るのですね」 「ええ。今回の件は私も大変衝撃を受けております。私自身の知らないところで、私の名前を使って部下たちがあのような犯罪を行っていたとは……。まことに申し訳なく思うと同時に、卿のご配慮には心底感謝いたしておりますわ」 「配慮というほどのことではありません。こんな事実を公表したら暴動が起きるから公表しないだけです。 しつこくお聞きして申し訳ありませんが、彼らの量産した金が枢機卿の銀行口座に蓄財されていたことも、ご自分の鍵を使用されていたことも、全くご存知なかったと仰るのですね」 「ええ、全く知りませんでした」 「――」 ふいに、コーノスは傍らにある葡萄酒を彼女に勧めた。 「いかがですか。北部はランデールの15年ものですよ。赤の甘口です」 美貌の枢機卿はくすりと笑ってコーノスの顔を見る。 「いいえ、結構ですわ」 「そうですか。ご自分の立場はお分かりのようですね。 私は大変腹を立てています。出来れば枢機卿には責任を取って辞職して頂きたいのですが」 「お断りいたしますわ」 「罪の意識はお持ちでない?」 「こんなもの罪の部類に入りませんわ。何がいけませんの? コーノス卿は、ほとんどの高位聖職者が広大な荘園を私有し、小麦や家畜の取引で財をなしていることをご存知ね。それとどう違うというんですの?」 「娼婦は刈り取れば血を流し、神を信じる理性を持った人間です」 「それならどうしてあんな商売をしているんです? あれは堕落したその商売にふさわしい女たちに過ぎません。 私はそれをそれにふさわしく扱っただけ、必要以上に虐待も持ち上げもしていませんわ。何が悪いのか私には分かりません。 それにいくらあなたがご不興でも、私には何の影響もございませんの。ご免遊ばせ。ミサが始りますから」 と、枢機卿は今日も満員御礼なミサへ出かけていった。 「そうですか、ならば地獄の門前でお悔やみください」 執務室に残ったコーノスは目を閉じて呟いた。今日のミサはスペシャルメニュー。ミノス製毒入り聖餅即効性でござる。 「私の母は娼婦でね、ミノス」 侍従の振りをして部屋の隅に控えていた私に笑いかける。 「それはもうくらくらするほど残慮で馬鹿な女だった。しかしそれでも、あの生活が彼女にふさわしかったとはとても思えん。 ああ仰るなら枢機卿閣下には、ふさわしい場所へお戻り頂くことにしよう。辞任してくれるなら命まで取る気はなかったのだが」 「教皇は?」 「大司教たちが聖堂で捕縛された時点で承知済みで、既に次の人選に入っている。とばっちりで私の利益ノルマが増えたが、まあこれくらいは仕方ないだろう。 しかしミノス、あれはやり過ぎだったぞ。リップ君がここに連れてきた神父を、裸に剥いて拷問したろう」 「必要だからしただけだ。大体、あんなのは拷問のうちに入らん」 「やれやれ、王都仕込みかなんだか知らんが、世の中は危険な女で一杯だな」 「聞きたいんだがな、コーノス」 「なんだ?」 「聖庁に蓄えてあった『真実の薬』を栄養剤か何かにすり替えたか」 「当たり前だろう。最初の殺人でコレクション内の毒が使われたということは、また使われるということだ。君に調査を依頼する前から全種をすり替えておいたよ」 「……それじゃ何故、あの時そう言わなかった?!」 「だってそれを知ったら君ら本気を出さんだろう。それにたまたま連中は今回も聖庁の薬を使ったが、自前で用意するということも考えられた。マヒト君、運が良くてヨカッタな」 「――……」 全くもって忌々しい男だ。舌打ちをしたら、 「それと君の負債の件だが」 もっと嫌な話になった。結果の予想に渋い顔になった私を見て、コーノスはふいに悪意のない微笑を浮かべる。 「きわどい場面はあったが、とりあえず混乱は収まった。当初の話どおり、原負債額20%棒引きと利息の2%減で行こうじゃないか」 「――は?」 拍子抜けする私をよそに、話は終わったとばかりコーノスは立ち上がり、グラス片手に窓際に立った。ご意見無用のポーズである。 「…………」 時々思うことだがこの男は、普段は趣味かと思うくらい私を苛めるくせに、ここ一番のところでは滅多矢鱈にぬるい。 というより――甘い。 気味の悪い野郎だ。 彼の背中から目線を引き剥がしてそっぽを向いた頃、窓の外から厳かに鐘の音が響いてきて、昼二課の大ミサが始ることを街全体に告げた。 神父ヒルデベルトも今ごろ、これを聞いているかもしれない。あの日、駆けつけてきた司祭たちに罪を告白した彼は、今マヒトが入っていた部屋の丁度隣に保護されていて、内赦院から法廷に呼び出されるのを待っている。 |