ポケットに突っ込んだ鍵を取り出すと、掌にひやりと冷たかった。星の視線を感じながら錠を開き、店の中に疲れた体を押し込む。
 再び内側から錠を下ろしてやっと一息ついた。三時間ばかりの外出に、かなり疲労している。
 不快な夜だった。
そもそもはコーノスに解毒剤を届に行くだけのつもりだったのだが、めぐり合わせから全く嫌な場面に遭遇してしまった――。
 不吉が布の形をして鼻先に引っかかっている。
厄落としの呪いでもして、さっさと眠ってしまいたいところだ。
 しかし、衣服の肩に皺よす持ち物が自分の存在をアピールした。休む前にともかくこいつを子ども(例えば林檎)の手の届かないところに保管せねばならない。
 私は暗い店内を勘と慣れで進み、カウンターの奥から地下へ下りた。階段も勿論真っ暗だが、少し気をつければ平気だ。
 工房へ降り立つと、私は荷物を台の上へ置き、やっと蝋燭の側に立ってマッチを擦った。
 弾けた火花の先に生じた大豆ほどの炎が、部屋の中では太陽のように思われる。傍の蝋燭に火を移し、ふと顔を上げた私は、その瞬間危うく大声を上げるところだった。
 目の前に、本当に目の前の壁に、男が立っている。
身にまとった泥のような陰が、蝋燭が僅かに揺れるたび、病じみて踊る。
 背中はそのまま壁と一体になっているのではないか。今一瞬の間に、壁から出てきたのではないかとバカなことを考える程、男の有り様は無機質だった。
 それでいてねっとりと冷たく、沼のように湿った眼差し。私は自分の間抜けさに思わず歯噛みをした。
「ポワントス…………」
 白い肌に線が走ったな、と思うとそれが歪んで嘲笑する唇になった。
「心乱さず服従せよ、毒師ミノス。汝の負けは既に決している」
「…………」
 その通りだった。
なんて忌々しくも透き通って抗うことの出来ない言葉だろう。この男に対するのは、まこと美しい瓶に入った孤高の毒物を眺めるに等しい。毒相手に初手から喧嘩など成り立たちはしないだろう。
 私は落ち着いた。そうせざるを得なかった。目の前の男は本来なら私の師に相応しい実力を有した男だ。
適うはずがない。
 それは修羅場に走る生物としての直感であり、恐らく同時に、事実だった。
「――ごきげんよう、毒師ポワントス。このような夜分、私如きに何のご用か?」
「この度コルタを離れることになった。それ故、最後に一仕事をと思うてな」
 今ごろコーノスは部下から、家がもぬけの殻だったとの報告を受けていることだろう。やはり最初からこの男は明確な目的を持って聖庁と関与していたのだ。
「なるほど。陛下のもとへお帰りか」
「違えるな。我はどの主にも属さぬ。ただ金を媒介に仕事を請け負うだけのこと。今回は北ヴァンタス王との契約に従ったが、偏に一過性のもの。我は王の犬ではない」
「――」
 そしてこの男は依頼主が自分の気に障りさえしなければ、内容の道徳性にも頓着しないのだろう。その無差別はやはり人間というより、毒そのものの持つ特性だ。
「……聖庁が貴公の行方を追っている。用心なさるがよろしい」
 目を細めた私の言葉を、年齢不明の男は鼻先で笑い飛ばした。
「汝如きに諭されることではないな。さて、遣り残しを片付けるか」
 は、と思ったときには遅かった。ポワントスの外套の下から伸びた杖が台の上の荷物を突き飛ばす。
 それは宙を飛び、的確に私の左側、丁度体一つ分の距離に墜落した。中でがしゃんと硝子の割れる音がする。
「――」
 思わず私は眉を険しくした。
ポワントスは平然としている。木目に液体が染み込んで行く時の、小さくて面白い音が耳に聞こえた。
「これで用事は済んだ。後は世間話だ」
「世間話だと?」
「まあ会話にならずとも問題はない。
 我は汝の作った毒物を幾つか見る機会があった。その優良なる点、欠けたる点、何れもどこかで目にした記憶がある――王都なり。
 王都で過去接したことのある一連の毒物とあまりにもよく似ている。直弟子かとも考えた。しかし王都の毒物師が行方をくらましていると聞きて、認識を改めた。
 二人はおらぬ。一人なのだとな」
 黒い闇のような瞳が両のまぶたに挟まれて細くなる。その中に映された私は小人のようにちっぽけで、とても息苦しそうだ。
 ポワントスの薄くて湿った唇が、三年は聞いていなかったその名前を音にする。
「かつて王都でチヒロと呼ばれた年若き毒物師。汝のことか?」
「……だとすれば、何とする」
 睨み付けた私に向かって、男は随分らしくない返答をした。
「要らぬ助言をする迄のことよ」
「なに?」
 私は本気で聞き返す。だがポワントスは至って真面目に続けた。
「我は誰にも属さぬが、汝は未だ属しておろう。今は聖都で随分気の抜けた生活を送っているようだが、汝の主は貪欲だ。財産を手放したまま捨て置くとはとても思えぬ。権勢と破滅の馬車を駆ってじき汝を狩るぞ。
 自ら信ずるものから引き剥がされたくなければ、ゆめ用心を怠るな。このような錠の甘い工房に安穏と住まうとは、事態を甘く見るにも程がある」
「――何の義理で」
 思わず私は言った。心情そのままの発言だった。
 正直殺しに来たのかと思っていた。一体何の酔狂でこの男が私の身の上の心配など。
 ポワントスもその点は自分で同感なのだろう。面倒くさそうに肩をすくめて言った。
「これが初にして終なるは無論のこと。汝の父親に借りが有る故だ」
「――父に?」
 どっちのことだ。
私は胸の中で聞いていた。
生みの親か育ての親か。
 勿論その問いはポワントスには届かない。彼は心底せいせいしたかのように体を揺すり、初めて壁から身を離した。
「これで縛られる由ものうなった。この上は留まる理由もない。
 さればだ毒師チヒロ。くれぐれも誤解のなきよう。次に会して故あれば、我は即ち屠ろうぞ」
「――」
 外套の長いすそをひらめかせて、ポワントスは出て行く。床には鑑定不能となった毒液が虚しく円(まどか)を広げていた。
 眠気がきれいに吹っ飛んでしまった。私は冷たい額を抱いたまま、長いこと工房の中に立っていた。





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