夜更けてコーノスの執務室に辿り着く。
珍しく控え室で待たされた。
十分ほどして通されると、コーノスは書類で一杯になった机の前で、無表情に近い顔をしている。――あらら、と私は思った。
コーノスは余裕があるときほどわざとらしい表情をする。何か事態がうまくない方向へ進んでいるらしかった。
「話は聞いてるかね」
「大体。市井で知れるレベルだが」
「そうか――。まあ、掛けたまえ」
言われたとおり椅子に腰を下ろす。すると痩せ男も座った。そして両手で唇の前に三角形を作って私を見つめたかと思うと、いきなり言った。
「妙なことに巻き込まれたな」
私は黙って乞食のように手を差し出す。
『説明を乞う。』
何しろ私にはまだほとんど見えていないのだ。反応のしようがない。
するとコーノスはため息をつき、やっと私の期待に応え始めた。
「……そうだな。まず情報を補足しておこう。リップ君を人質にして連れ去った男はトラスという名のよそ者だ。
事件当日にコルタ・ヌォーヴォに入り、その晩ラーギン街で宿に侵入。宿泊していた旅行者の貴族、エミリオ・グランをものも言わずに刺し殺し、翌日昼、偶然北門に居合わせたリップ君を盾にとって逃亡した。
調査によればトラスはもともとカステルヴィッツの王都警備隊に所属する軍人だった。被害者グランの父親も北ヴァンタス王の側近だ。恐らく、王都で、彼らの間に何かがあったのだろう。トラスは被害者を滅多矢鱈に刺しまくって、周囲は血の海。遺体はひどい状況だった。明らかに恨みによる殺人だ」
「宝石が無くなっていたと聞いたが?」
「それは我々は確認していないし、情報として流してもいない。同行していたグラン家の関係者たちが主張し、自分らで流布したのだ。
必要以上に首を突っ込んで欲しくないという同家の意思の表明と受け取っている。実際、今日の午後になって正式に王国から牽制が掛かった。『既にトラス元隊員は王都及び北ヴァンタスの各都市で十一件もの殺人を重ね、長らく王都蒼騎士隊が行方を追っていた。今回の被害者も北ヴァンタス人である以上、聖庁での重ねての捜査は無用』とな」
「――」
「やはり驚かないな。私はここもそれほど好きではないが、王都という土地は尚更好きになれん。あそこから来る人間はほんの子供ですら、暴力に慣れ過ぎているぞ――。
まあそれはいい。問題は、聖庁が実際に彼らの後を追わない決定を下したことだ」
水色の硝子で出来た瀟洒なシャンデリアの中を、沈黙がくぐった。これが落ちてきたら脳みそが割れるだろうなと想像しながら、私は口を開く。
「十二人殺しを野放しか」
「トラスはすでに街から去った。滞在は正味一日。その上容疑者は、北ヴァンタスの兵士たちが追うという。我々としては、門を固めこそすれ追撃する理由がない」
「リップはどうなる。見殺しか」
「私も、今の今まで努力はしたのだ、ミノス。この机の有様を見ろ!」
手を腹の上に落とし、苛立ちと徒労を滲ませてコーノスは言った。
「だが、とうとう聖庁がリップ君を追わねばならない理由を見つけられなかった。それどころか調べれば調べるほど、彼は透明になっていく」
「…………」
自分の眉間に縦ジワが寄ったのが分かった。
笑えない。
こんな形であの男の正体不明さが仇になるとは。
「君も薄々勘付いていただろう。『リップ』は偽名だ。君の『ミノス』と同様に。その上彼にも、この街に戸籍がない。つまり住んでいても、書類の上では存在しないことになる。そういう立場にあるのは落伍者か犯罪者か逃亡者か。いずれにしてもけちな坊主どもが近衛兵を出し渋るには充分すぎる素性だ」
コーノスは肩をすくめる。
「私は王都にも早馬を飛ばして調べさせたのだぞ。
男が門が閉まった後短剣を投げてよこしたというから、少なくともその時点でトラスはリップ君の体を押さえていなかったことになる。
加えて兵士たちの証言に目を通したが、リップ君は自分から進んで人質になったようにも見えるのだ」
「……顔見知りだったと?」
「年齢は近いし、その可能性はあると思った。不自然な発想か?」
「いや」
私はまぶたを押さえた。リップは確かに訓練されていた。しかもはっきりと王都の軍隊式で。マヒトはそういう疑問を抱かなかったらしいが、抵抗だって幾らでも出来たはずだ。
犯人が王都の元軍人だと知れた時点で、私も同じ疑いを持っただろう。だが、彼の顎は否定的に動いた。
「成果は上がらなかった。北ヴァンタス王の宮廷にもぐりこんでいる『草』に秘密裡に軍の記録を当たらせたのだが、苗字・個人名共に該当者なしだ。
恐らく彼は名前を変えている。だから単純に記録を当たるだけでは見つけられないだろう。
キレた私の部下は皮肉を投げてよこしたぞ」
コーノスの痩せた手が、一番表に出ていた粗悪な紙を一枚広げて私に見せる。そこには掠れたインクでこうあった。
――で、「リップ」とは誰ですか?
そして私もコーノスも、その問いに答えられないのだ。
- つづく -
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