コントラコスモス -15-
ContraCosmos



 聖ベネクティス修道院は、涼しい北部の乾いた平原の中に黒い墓標のように立っている。コルタから馬で半日飛ばせば着く距離だが、マヒトはほとんど休みも取らず無謀にも駆け通して(馬が潰れたらどうする気だったのだろう?)その夜のうちに修道院の黒い鉄の扉にたどり着いた。
 聖ベネクティス修道会は、沈黙・清貧・信仰を基とし、僧侶が聖書に教えられたとおりの生活をするための集団として五十年程前に設立された。
 従ってその建物もコルタの教会建築とは思考がまるで違う。コルタに限らず全て俗界に接して建てられる聖堂は、少なからず信徒たちを抱擁、或いは圧倒しようという意図で建てられるものだ。
 だが、この修道院は黒い表皮で外部者を拒絶していた。彼らは確かに清く正しく神の御心に適う信仰生活をしているのかもしれなかった。だが、それは自分たちだけの宝で、他の人間は関係ないのだった。
 当然、そこに暮らす僧侶たちは聖庁からやってきたマヒトを歓迎しなかった。いかにコーノスが方々の施設に手紙をやってあらかじめ網を張っていたとしても、ある医師の存在がなければリップはとても見つからなかったかもしれない。
 その医師は三十代中盤の若い、聡明そうな俗人で、ただ一人マヒトをもてなし、戸惑う彼にひそひそ声でこの修道会の特徴を話してくれた。
「よくいらっしゃいました。ここはとても排他的なところでして、あなたに限らず外部者はほとんど喜びません。お気になさってはいけません。
 とりあえず、こちらへ。彼らはこれから晩課ですから、みんな礼拝堂へこもりに行きます。そうすればちょっとくらい動いていても大丈夫です」
 医師は、そう言ってうら寒い玄関から僧房の方へ彼を案内した。廊下の窓からふと見ると、確かに同じ服を着た修道僧たちが一列になって聖句を唱えながら、大きな建物の中へ入っていくところだった。
「聖なるものしか見ずその言葉以外は唱えない。とても立派なことですが、彼らは臆病で困る。外部の空気に触れただけでも、鉄壁で高濃度な信仰が揺らいでしまうと思っているんです。それは無菌室の中の信仰です。この世を生きていく力はあるのでしょうか?
 ――失敬、つい。お客人の対応について彼らと揉めて、まだ少々腹が立っているものですから。私はとある事情があって、長らくここに隠されている立場の医師なのですが、とにかく彼は早いうちに都会の医師の元へ送った方がよろしい。
 だというのに、彼らは聖庁からの手紙をそのまま揉み消そうとしたのです。係わり合いをもちたくないのでしょう。全ての責任は私が持つ、と押して何とか。すぐに来て頂いて幸いでした。
 ――ここがお客人の部屋ですが、お静かに。眠っていますから」
 マヒトが通されたのは小さな部屋だった。多分修道士用の居室だろう。粗末で寒く、マヒトが聖庁で与えられている部屋とは比べ物にならない厳しさだった。
 その古びて狭い寝台の上に、青白い横顔があった。マヒトはそのこけた頬を見た途端、目が焼けた様な気がした。自分のしたことが跳ね返ってきた。数日の断食でげっそり痩せた顔と、傷ついた額。落ち窪んだ目元と、青白い唇でもって。
「…………」
 声が出なかった。また頭が真っ白になり、出来ることなら。本当に出来ることなら、やり直したいと思った。
 医師は病人に近寄ると、蝋燭を持っていないほうの手でそっと額に触れ、熱を見た。そして浮かない顔で振り返ると、身振りで一旦出ましょう。と示した。
 彼らは隣の部屋に入る。医師の個室だった。
「あなたのお探しの方に間違いありませんでしたか?」
「…………はい」
 マヒトは椅子の上で前かがみになり、目元を両手でぐりぐりと押さえ、ため息とともに言った。
「間違いありません」
「そうですか。彼が見つかったのは今日の早朝です。それから熱がなかなか下がりません。とりあえずあるだけの薬で押さえてはいますが、悪くすると肺炎を起こす可能性があります。
 早めにコルタの、信頼できる医師に見せるのが賢明でしょう。
 馬車の準備を整えてあります。夜通し走れば明日の朝には何とか着くでしょう。向こうに着いたらすぐ医者に行ってください」
「……はい」
 返事をしたものの、額に冷たい汗がでていた。マヒトは動揺していた。
 ……彼を。
彼をここまで追い詰めたのは自分だ。自分の無知と無神経さが彼を――。唇の前で合わせた掌が震えていた。
 医師は、それをしばらく無言で眺めていたが、やがてまた口を開いた。今までの説明口調とは趣が違っていた。
「実は彼がここに来たのは初めてではありません。ご存知でしたか?」
「……え?」
 マヒトは狼狽した目を医師に当てた。それが「知らない」という返答になった。
 医師は、両膝の上に手を投げ出し、窓の外を見るような仕草をした。
「……三年ほど前の、寒い雪の晩に、彼は一度ここに担ぎ込まれたことがあります。その時は一人ではなく二人で、林の中で倒れていた彼らを見つけた猟師たちが、他に行き場もなくここへ運び込んだのです。簡単に言えば、もうご臨終だと思ったのでしょうね。
 事実、二人のうち一人はもう死亡していました。女性でした。残りの一人が、彼です。
 服毒でした。自殺ですね」
 暗い硝子の表層から部屋の中に眼差しを戻すと、聖都からやってきた青年僧は、口をあけて自分の方を見ていた。
「驚きましたよ。今朝方再び運び込まれた彼を見たときには。年を経てやはり少し変わっていましたが、間違いなく同じ人物です。そしてやはり……難しかったのかなあ、と思いました。
 彼と死亡した女性の間に何があったのか、私は知りません。ただ、心中に失敗して相手だけ殺してしまった人間が、どれほどやり切れぬ立場に立たされるか、想像しただけで寒気がします。
 どうしているのかと、時々思い返しては心配していました。理解のある人たちに囲まれて、傷を癒しながら生きられればいいが。必要以上に自分を追い詰めなければいいが。そう思っていましたが……。やはり、難しかったのでしょうね……」
 医師は馬車を引き出しに行った。マヒトは彼に言われて、寝台からリップの体を抱え上げ、玄関へ向かう。
 冷えて暗い廊下に、聖堂から修道士たちの賛美歌が流れてきた。陰々と耳の渦巻きに落ちていくその響きに眩暈を覚えながら、マヒトは両腕にかかる体重に、歯を食いしばった。
「……が悪かっ…………」
 隙間から破けた言葉が血のように唇に滲む。一人を抱えた一人の影がよろよろと闇をさまよった。
「……死んでいい、リップ。俺が悪かった、死んでいい……」
 ――地獄がどうした。天国がどうした。
誰を救う力もない。
自分には誰を救うことも出来ない。
 だったらせめて受け止めるしかない。自分が生きている証に。
 痛切にそう思い知りながら、マヒトは言う。
「……お前の犯した罪はみんな俺が背負って、主の前まで歩いていくから……」
 お前は死んでもいい。
 誰もいなくなった廊下に聖歌の残響が渦巻いて消えた。





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