コントラコスモス -15-
ContraCosmos



 ――結局、リップは一日で回復した。なんのことはない。栄養失調と寝不足で風邪を引いてただけなのだ。
 それに、誰がしたか知らないが最初の投薬処置がよかった。肺炎にならなかったのは、そのおかげだ。
 朝方は熱でまだうんうんうなっていたものの、静かになった夕方過ぎ、ぱちりと目を開くと私を見上げて、
「アレ? 俺、どうしてここにいんの?」
などと抜かした。私はそれを聞くとなんかこう気がぬけてしまい、色々思っていたことも忘れて腕を組み、やっとこれだけ告げた。
「――このアホ」
 で、そのアホは今はもう、カウンターについて茶を飲んでいる。体は現金なほどすっかり治ってしまったが、心は整理がつかないらしく、どことなく苦々しげにぼんやりしていた。魂半分くらいまだどこかさまよっているような感じだ。
 意に反して戻ってきてしまったというのが勿論大きいのだろう。だが、もっと複雑な感情もあるらしく、どこか自分に対して怒っているような様子もあった。
 何も知らない林檎は、リップの顔をみるなり大喜びして、
「今度から気をつけなきゃダメですよ! 私もマヒトさんもすごい心配したんですから!!」
と言った。彼女が表の掃除に出て行くと、
「うーん。……どうしてこうなるか……」
リップは空になった茶器の側に肘をついてぼそりと吐く。私は致し方なく、肩をすくめた。
「運が悪いか、まだその時じゃないのか。どちらにせよ諦めろよ、明らかに時機を逸したぞ。
 少なくともマヒトが側に張り付いている間はお前、おいそれと鬼籍に入らしてもらえんだろうよ」
 その名が出るとリップは顔を上げて、本当にわからないというような表情を見せた。この手垢にまみれた男がこんな風に心底惑うのはかなり珍しいので、ちょっと驚く。
「……あいつ、なんなの?」
「何って?」
「死んでいいんだって」
「はァ?」
「聞こえた。多分夢じゃないだろ……。
 あいつ俺に、死んでいいって言ったんだ」
 バカ言うな、聖職者が?
腐しかけて、私はそのまま固まった。
 ……言うかもしれない。あいつなら。
あいつは向いてない。「権力」や、「教会」といったものに。
 あれの役割は管理者や指導者ではなく意外にも多分―――。……そのために大きな体と熱い心があるのだろう。
 なんなんだあれは。
リップが動じる気持ちはよく分かる。
 しかし正体を探っても意味はない。あれは坊主だ。
ただ信じているだけの、正真正銘の坊主だ。
「……そういやあいつ、なんか今朝はえらく慌ててたな。寮の門限なんて既にぶっちぎりだったはずだが、何か急用でもあったのかな」
 朝を思い出して、丁度そう言った時だった。
 表が急に騒がしくなった、と思ったら、当の神学生がものすごく取り乱して店の中に飛び込んできた。
「ミ、ミ、ミノス! 俺、どうしよう!!」
「――は?」
 どうしよう?
何のことやら分からず、私は口を開ける。
 マヒトは側に朝、自分が運んできたリップがいることも気にならないほど慌てていて、
「なんだ、ケガでもしてるのか、その手?」
と、リップが言ったように、包帯の巻かれた自分の両手をまるで自分のものではないように前に突き出し、涙目で辺りをうろうろした。
 私たちは呆気にとられてその様を見守る。
「なんか変なんだ!! 今日の朝から変なんだ! どうにかしてくれ!」
「ちょ、ちょっとマヒトさん。落ち着いて」
 後ろから入ってきた林檎が珍しくまともなことを言って、恐慌をきたしている巨漢の坊主を止めた。
「どうしたんですか? これ取ってみてもいいですか?」
「ああううおお」
 声が震えて返答もまともに出来ない。林檎が彼の右手を取って、滅茶苦茶に巻きつけてある包帯をするすると剥がしていった。
 その白い筋が途中から赤くなっていくのが目に映る。
 私は怪我か? と前かがみになった。
 だが、すっかり包帯を解かれた掌が突き出された途端、私もリップも仰天して飛び上がってしまった。
「ぅわ―――――――ッ?!!!」
 マヒトの大きな掌。
その、全く傷跡すら見当たらない中央から、赤い……滴。
 ――大したことのないの量だ。
だか間違いなく滲み出している。何も、ありはしないのに……!
「わ―――― !! わ―――――――ッ!! お前!!!」
 ぶったまげた。
こんなに驚いたことはない。
何しろ気がついたら後ろの棚まで後退していた。
 リップの両目も開ききって、眼球が落っこちそうになっている。両腕は逃げ場を探してカウンターで行き止まっていた。
「どうしよう! 俺、変な病気なのか!? 左もこうなんだ! どうしよう!」
 私たちの派手な反応に、マヒトはますますパニックになる。すると、不自然なほど冷静な林檎の声が店内に響いた。
「大丈夫ですよ、マヒトさん。薬つければ治ります! ……お二人とも! 何そんな大袈裟にしてるんです! こんな時にふざけるなんて悪趣味ですよ!」
 いや違うって林檎さん! これは明らかにそういう類のものではなくて。ていうか聖書とか聖人伝とか読んだことないんですか?!
 私は色を失ってただボーゼンと、泣きながら手に軟膏を塗ってもらっているマヒトを眺めていた。
 そのうちリップが笑い出した。カウンターを打ち、腹を抱えての大爆笑だった。
「ちょ、何笑ってんですかリップさん! ふざけないで下さい! 怒りますよ!」
 勿論、一度爆発したものは止まらない。終いには机の上に突っ伏して肺をヒーヒー言わす始末だ。
「なあ、ミノス……。これ治るかなあ? 俺、死んだりしないよなあ?」
 再び包帯を巻き終えたマヒトがひっく、と、犬みたいな目で私を見た。勿論こいつはどこまでも真剣で真面目で……、そして、分かっていない。
「ああ、えっと……」
 ともかく、額に手を当て、ぐらぐらするのになんとか耐えた。
「そうだな……。まあ二三日すれば治るんじゃ……?」
 我ながらよくもいい加減なことが言えたものだ。
 それにても、あ―――――……びっくりした。
 側では半死半生のリップの肩が、まだ間をおいて痙攣していた。


-了-




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