――私、レジナルド・クレスは、月並みな人間です。確かに子供の頃、下級官僚であった父が陰謀の下敷きになり、かなり不名誉な冤罪をかけられて早死にしたりしましたが、子供時代を思い返して楽しいことばかりだったと言う人は滅多にいないと思います。
母は、父の一件によって王宮が魔窟であることは知っていたと思いますが、それでも私を官吏にしたがりました。父より立派な官僚になり、その汚名を漱ぐようにと繰り返し私に言ったものです。
門閥の跋扈する宮廷で私のような人間がこの先どこまで無事に行けるか不明ですが、苦労した人ですから、できるだけ母の希望をかなえてやりたいと思っています。
ところで私は、時として人から敬遠されてしまいます。どこか振舞いに不自然なところがあるのかもしれません。何を考えているのか分からない。自我がなさ過ぎる、と言われたこともあります。
これについては我ながらほとほと困っています。不愉快な思いをさせているなら済まないと思ってはいるのですが、自分では普通にやっているつもりなので、どこを治したらいいのか分からないのです。
どうも私は、喜怒哀楽のツボや興味の対象が人と少し違うようなのです。それで放っておくとどんどん後ろに取り残されてしまいます。
それでも今は随分ましになったのですが、王立の官吏養成コースにいた頃は、かなり周囲から浮き上がっていたようです。遊びに加わることはおろか、ちょっとした食事やお茶にも参加しない人間だったのでまあ無理もないでしょう。
暇さえあれば書館で書物をめくっていた私は、傍から見るとものすごく年寄りくさくて不気味だったと後から同期生の一人が教えてくれたことがあります。……私本人は、そんな生活をとても楽しんでいたのですけれども。
それに、私は独りではありませんでした。
そこに友人がいたのです。
彼女はとても勤勉な人で、毎朝一番乗りで書館に現れて薔薇窓の下で勉強をしていました。ある日他に尋ねる人もいなかったために彼女に幾何の質問をして以来、私たちは勉強仲間みたいなものになりました。
彼女も(と言っては私などと次元が違うのですから失礼ですが)、やはり養成コースの普通の学徒からは敬遠されていました。多分あまり頭が鋭すぎたのと、その出自が少し、分かりにくかったためだと思います。
彼女は寮に入る前は、孤児院で暮らしていました。そのどちらの施設もお金のない人が入るところです。私の付き合いの悪さもそうですが、そういった貧しさは理解されにくく軽んじられやすいものなのです。
その当時も、あんな無愛想で得体の知れない人間と付き合うのはやめろ、と私に言ってくる人がいました。けれど私は片親でしたから、一人の親も持たない彼女がどれほどの悪路を押して進んで来なければならなかったか、少しは理解していたつもりです。
私はつまり、勝手に彼女を仲間と思い込んで勝手に親しみを覚え、迷惑も考えずに何かと話し掛けては、しばしば彼女の邪魔をしていたわけです。
その大半は本当につまらない話でした。別にしなくてもいい話でした。でも彼女の目を覗き込むのが好きでした。黒い瞳の奥にちらちらと冬場の空のように星が瞬いていました。
学問が好きな人間にとって、学生生活ほど楽しい時期はありません。私は危うく母の希望も忘れて、このまま学者になりたいと何度も思ったほどです。
しかし養成コースは三年で終わります。二年の終わりに差し掛かった頃、私は父のかつての上司にあたる方から、課程修了後の就職口についてとてもいいお話を頂きました。
その噂が広まって以来、今まで私を遠巻きにしていた同期生たちが旧来からの友人であるかのように振舞い始めたほどのいいお話でした。
何しろ、それが実現すれば私はいきなり一等書記官からのスタートとなり(通常は三等です)、上司の末のご令嬢を得てその一族にすら関与できるのです。
労苦した母を一気に楽にすることのできる話でした。これを断る手はないと誰もが言いました。私もそう思いました。
承諾した途端私は忙しくなってしまい、以前のように学問中心の生活が出来なくなりました。毎日顔を合わせていた彼女とも一週間に一度か二度―――
これは私だけが忙しくなったためではなく、彼女の周りでもやはり色々な動きがあったためだと思います。久しぶりに図書館に顔を出せても、彼女が来ていないこともよくありました。
それでも、まさか課程修了を目の前にして、突然彼女がいなくなってしまうとは考えていませんでした。
ある日、前出の親切な友人から聞いたのです。彼女がコースからも寮からもいなくなり、どこへ行ったのか誰にも分からないのだと。
――よかったじゃないか。なんか変な噂になってたんだろ? と彼は言いました。それは事実です。多分裏に妬みや焦りがあるのだと思いますが、私の進路が決まった直後から、突然私と彼女の関係について根拠のない噂が流れ出していたのです。
事実でなかったので勿論私は否定し、上司と私の婚約者は納得したと言っていましたが、やや不快そうだったのは本当です。
しかし、それとこれとは別です。現実に友人がいなくなれば、どうして?
と思うのは自然なことではないでしょうか。
私は最後に彼女と交わした会話を必死になって思い出そうとしましたが、うまくいきませんでした。少し彼女に元気がないような気がしましたが、その時は私も少し疲労を残していました。そう見えただけかもしれません。
二度、三度と暇を作り出しては書館に行きましたが、薔薇窓の前の席はいつもカラッポのままでした。行き先を調べようにも彼女は孤児で、今思えば手がかりの一つもありはしないのでした。
やがて私はそこへ通わなくなりました。
コース修了の時はやってきて、私はめでたく一等書記官に。そして結婚をして王宮にも慣れ、何度かの昇進を経験しました。
――外務補佐次官になった時のことです。
何年も全く聞いていなかった彼女の話を、義父から突然聞かされました。いよいよ地位が上がってきたから、飲食にはくれぐれも気をつけなければならない、と戒められたときの会話です。
『毒物を扱う人間は権力の随所にその正体を隠して存在している。気を許してはいかん。許したら死ぬぞ。
そういえば昔君が親しくしていた学徒がいたが、あれもそういう危険な人間の一人だった。知らなかっただろう?』
―― え?
彼女が? 毒物に関……毒物師? え?
『あれの父親がそういう人間なんだ。毒物師は親子伝承だから、表向きは官僚として育てられるが、裏ではおぞましい知識を受け継いでいたはずだ。
だからあれがいなくなったと聞いた時、わしはほっとしたもんだよ。あんな人間が君の周りをウロチョロしていたんでは、私もヴェーラ(妻の名)も安心できなかったからな。
本当に、いなくなってくれて、よかった』
それは不思議な感覚でした。
父のことが思い出されました。父はこの義父のために汚名を被って裁判にかけられ、無罪釈放されたものの不名誉な風評を負ったまま健康を害して死んだのです。
その時も、この人は言ったのかもしれません。あの部下が人の好い男で、よかったと。
彼が私を選んだのも、多分その『人の好さ』を期待してのことでしょう。甘やかして育てた末娘の行き先として選んだのも……。
分かっていました。私はそういう人間です。自我がなく、何をされても逆らわず、その利用しやすさ故に義父に選ばれたのですから。
でも私はそんな立場にありながら、同様に「選ばれた」彼女のことを見抜けませんでした。まるで理解していませんでした。
勿論、彼女がいなくなったことと、私の妻とその義父が心の平安を得たことに関連があったかどうかは分かりません。
いや、多分ないのでしょう。時期の符合は偶然だったのでしょう。
でも、私はどうしても考えてしまう。
彼女が残っていたら、二人はその存在に神経を尖らし、それはまた私のストレスになっただろう。
ならば、事実はどうあれ私は彼女を、私の安泰のために犠牲にした。
彼女に世話になったのに。彼女に助けてもらったのに。私は何一つ彼女に返さず、それどころか彼女が「いなくなっ」たことよる円満に居座って、自分の望みをかなえた。
私は、それほど物事を深刻に考える方じゃありません。
でもこれは、全身に来ました。
本当にしたくないことだったのです。
私は薔薇窓の前に立つ彼女を利用したくなかった。父と母とに縛られた、私の汚い生き様に巻き込みたくなかった。
大切にしたかった。
以来私は、各地で外務にかこつけ、彼女の行方を探しました。見つけたからといって、何を言いたい、何をしたいとはっきり思っていたわけではないのですが、少なくとも彼女が元気に生きていて――ほんのちょっとでも、幸福でいてくれたら、と勝手なことを考えていました。
……でもいざ、こうして来てみると、やはり虫のよい考えだったと思います。彼女が私に会いたくないと思ったとしても、無理もないことだと思います。
不愉快な思いをさせるのは全く本意ではありません。だからもう参りませんが……、彼女に、……もし出来たら、伝えていただけませんか。
すまなかったと。
それから……、無事に生きていてくれて、とても嬉しかったと。
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