コントラコスモス -18-
ContraCosmos



 数時間後。
客間の扉が開け放たれると、やる方のない苛立ちと共に中に閉じ込められていた王都の官僚達が一斉に振り向いた。
 次の瞬間、数人の顔に露骨な敵意が浮かび上がるが――無理も無い。
 何故ならそこに立っていたのは、よりにもよって当初彼らに毒を盛ろうと試み、その為に葡萄酒の瓶を落とす役を果たした、あの太ったアル中の老司教だったからだ。
 勿論その後ろには若い真面目そうな文官が付き従っている。官僚たちは単なる建前人事であると断じ、最初から彼に話し掛けた。
「どうなっているのです?! 彼は無事なのですか?」
「どうして我々までこんなところで足止めを……。何の権利があって……!」
「これが聖なる家のやり方か?!」
 感情と共に体が動く。
 官僚達が彼の元へ詰め寄り、その流れに押されて老司教が迷惑そうに脇へ反れた。聖俗入り乱れて十六ほどの渦の中にはしかし、不動の二点があった。
 客間の奥。地味なテーブルについたまま微動だにしないのは昨晩「いただきましょうか」と杯を上げた壮年の外交官だ。
 転じて扉の前の文官も、周囲の連中をまあまあと押し留めながらも、一歩も動じない。にこやかさを崩さぬまま唐突に膝を折ると、召使のようにうやうやしく、人々に向かってお辞儀をしてみせた。
「お疲れ様でございます。皆様の安全のために、長らくおひきとめ致しまして申し訳ございませんでした。
 ようやくそれぞれお引取り頂ける状態となりました。どうぞお部屋へお戻りになり、安心してお休みください」
 やっと解放されるという。しかし望む情報はまるで与えられていない。翻弄されるままの官僚の一人が、呆れたような声を出した。
「安心ですと? こんな事態を引き起こしておいて、何を今更――」
「戻られよ、ファラス卿」
 机の奥から低い声が断固と命令する。不可解な目でそれを見、混乱と不足を抱えたまま、官僚たちはブツブツ文句を言いつつ客間から出て行った。
 文官は無神経なまでにニコニコしながらそれを見送る。その目がつと、老司教へずれた。彼を見ていた外交官の眼差しも流されるように動き、一瞬の後、またすぐと彼の上へ戻る。
 人がはけてしまうと文官は、
「……お戻りになって結構ですよ、司教様。ご協力ありがとうございました」
 と、早く部屋に帰って眠りたそうにしている老司教を部屋から出した。ただ扉のところで、ちょっと失礼と断って彼の法衣の裾に手を入れる。
「な、何かね?」
 驚いた老司教は腕を上げるが、彼は笑ってその肩を押しやっただけだった。
「何でもありません。どうもお疲れ様でした」
 扉が閉まる。
 客間には静寂と蝋燭の灯りの中、二つの影だけが残った。
 文官はゆっくりとテーブルに歩み寄ると、空中に向かって右の手をまっすぐ差し出した。
「外務院二等書記官のバラシンと申します。外務部第二課次長、シュヴァルツ子爵でいらっしゃいますね」
 ベテランで壮年の子爵に比べると、その文官はいかにも若く、風格が劣って見えた。姿を見かけたことくらいはあるが、今回の外交交渉の表舞台にも出てきていないくらいの初級官吏だ。
 だが、その眼差しには聡明さと自信があった。子爵が迷いながら差し出した手を畏れることもなくがっしりと握りしめると、自分から椅子を引き、席に着く。
「コーノス卿からあなたは語るに足る方であると伺っております。今後のことについて二、三お話させていただきたいと存じますが、よろしいですか?」
「――コーノス卿は、お見えにならぬのかな?」
「後で参ると申しておりました。私には先に、外交官の方々をお部屋にお戻しするように。それに加えて、シュヴァルツ子爵に今回の騒動を引き起こした下手人を教えて差し上げるようにと申し付けられまして」
 テーブルの上に、空になった硝子瓶が置かれる。先ほどの出入りに紛れて、老司教の長い法衣の裾に落としこまれたものだ。
 コーノスによって事件後すぐ客間に閉じ込められた犯人は瓶を捨てる間がなかった。そこでバラシンは格好のくず入れを彼に提供してやったのだった。
 シュヴァルツはそれを見やると、つまらなそうに眉を上げてお義理に少しケチをつけた。
「行為者の見当はおおよそ付いていた。何も敢えて教えてもらう必要もなかったのだがね」
「然様でございましたか。それはサービス過多でした」
 文官は嫌味なほど物の分かった笑いで受け流す。
「……さて、この一件についてどうするかは、クレス次官の生死がはっきりしてからに致しましょう。それとは別に今後、月に一度程度の定期的な文書交換を行いたいと存じますが、如何でしょうか? 勿論これは正式な外交交渉とも違い、あくまでも私的な『交際』の範囲に留まるものです。けれども長らく断絶状態であった私ども、情報不足は深刻です。互いに得るところは多いと存じますが」
「――貴公と私で?」
「ええ、もしお許しいただければ。ご覧の通り若輩ではございますが、少なくとも目先の利害に捕らわれて自国の人的資源を損なうような人間ではないと自負しております。随時参務次官の指示を仰ぎながら、両国のために適切にお役に立てると存じますが。
 それに、卿はあれで家族持ちでございまして……」
「…………」
「せめて三日に一度くらいは自宅で眠る生活をさせてやりたく思っております」
 ふっ、と難しげな口元から息が漏れ、その表情が半ば演技であったことを露呈した。
「――なるほど。それでは仕方ない。不本意ではあるが、了承いたしましょう」
「ありがとう存じます。では……」
 野心的な若い文官と、自国の宮廷内での苛烈な紛争を苦々しく思っている子爵はその後詳しいやり取りの形式について手早く取り決めた。
 話が終わった頃、午前一時を示す鐘の音が静かに、一度だけ聖庁の建物の中に染み渡っていった。
 扉が開かれ、コーノスが現れる。二人の眼差しを受けて、彼はにこりともせず簡潔に言った。
「クレス次官は助かります」
 堪えきれぬ安堵のため息がシュヴァルツの肩を揺らした。二人の目の前で、疲労した体が椅子の中に沈みこむ。
「……では、彼は過労で倒れたと正式に報告しましょう」
「幸甚です。とはいえ、本格的な快復は数日後になる様子ですので、その間次官には聖庁に留まっていただきますが……」
「よろしくお願いいたします。我々は明日――いや本日、予定通りにこちらを出発して帰国します。
 ……コーノス卿、何はともあれ感謝します。人死にがあればそれを利用してまたぞろ陰謀が組まれます。助かって実に幸いでした。いい薬師をお抱えのようですな」
「ええまあ、なかなか達者な人材です。もっとも――」
 倒れたのが彼でなければ助かったかどうか。
 思わず漏れそうになった不穏な台詞を口の中で噛み潰す。





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