コントラコスモス -18-
ContraCosmos



「悪いけど、俺帰るわ。一杯ひっかけないともたない」
 店に着くや、リップは荷物を放り出し、外の階段を二段飛ばしで上がっていった。本物のアル中まであと一歩というところだ。
「マヒト、今日は悪かったな。もうこっちはいいから、帰って少しでも休んでくれ」
 私にしては結構優しい言葉が出たような気がする。彼の背中を見ながら歩いている間に、そういえばマヒトにとって今夜は災難以外の何物でもなかったなと思い至って少し反省したからだ。
「――おう」
 返事があったからそれでいいものと思い、私は洗うだけでもしておくべき器具の入った籠を抱えて、地下へ降りる。工房に汲み置いている水を桶に張り、汚れた器具を放り込んで腕まくりをした。
 海綿を手に、鼻歌交じり、ぷかぷかしているフラスコを捕まえようとしたその時だった。
「ミノス」
 後ろからうっそりとした声で呼ばれて私は飛び上がりそうになった。
 振り向いて――嫌な気分になる。ぬっと大きなマヒトが工房の扉の内側に立っていたのである。
 どんな毒物師も、工房に人が理由なく踏み入るのは好まない。工房は毒に対する知識と良識があるが故に、理性をもって隠されている聖域である。毒物師の頭の中と言ってもいい。
 そんな場所に何も知らないマヒトが――もっとも辺りを見ている様子はなかったが――、断りもなく立ち入ってきたのは不快だった。たとえ昨晩彼に多大な迷惑をかけたのだとしても、それとこれとは話が別である。
「なんだ、お前。いいから帰れと言っただろう」
 私は海綿を水に浮かすと腰に手をやった。だが今日のマヒトは私よりも頑固な顔をしている。というより憮然としている。
 今更怒りがこみ上げてきたのだろうか。
 私は面倒くさいので、先に折れた。
「悪かったよ。つい気が動転して怒鳴ってしまったんだ。あれについては謝る。今日のところは水に流してくれ」
「…………」
 マヒトは腕を組んだ。一向顔色は冴えない。私は彼が何を考えているのか分からないでしびれを切らした。
「何だよ? 言いたいことでもありそうだな?」
「――ああ。あるな。言いたいことが」
「私も眠いんだ。手短にしてくれると助かるな」
「俺に嘘をつくのはやめてくれ」
「は? 何かついたか?」
「俺はお前が体調が悪いって聞いて心配してたんだよ。それが真夜中聖庁に出張ってるんだ。混乱して当然だろう」
 つまらないことを聞かされてテンションが下がった。
「――生憎だがそれは知らんよ。リップが勝手に言ったんだろう。私が病気だなんて私だって初耳だった」
「それにもう一つ」
「……なんだよ」
「あの男は、一体お前のなんなんだ」
 ナンナンダと来ましたか。
立派な妻帯者を捕まえて。
 私は思わず失笑する。
「同期生だよ。昔のな。色々あって苦労した男なんだ。お前だってそういう奴が目の前で死にかけてたら必死になるだろ?」
 私の差し向けた喩えにマヒトは黙った。実に簡単だ。単細胞な彼がどんなロマンスを想像したか知らないが、そんな下世話な創作にはこちとら慣れっこなのである。
「じゃあ、彼はお前の大事な友人だったんだな?」
「大事とか大事じゃないとか」
 よくもそんな修辞を恥ずかしくもなく使えるものだ。私は眉を顰めて苛立ちを示した。
「お前が何を考えてるのか分かるよ。だが、もっと単純な話だろ? あれは正直で無欲な男なんだ。そういう人間が下らない罠にはまって死ぬなんて気に入らないから、出来れば助けようと思っただけじゃないか――」
 自分ではごく当たり前のことを言っただけのつもりだったのに、マヒトの眉間の影がぎょっとするほど濃くなった。そして彼はほとんど恨むような目付きで私を見据えつつ、暗い声音で言ったのだ。
「お前それは、えこひいきだぞ」
「……は?」
 声は懐疑だったが、出た時には既に彼が一体何を言わんとしていたのか、しまったと思う速度で分かっていた。
 そして分かったからにはそれを、はっきりした言葉で口に出して欲しくなかった。
 しかし彼は突然ずかずかと側までやってくると、思わず息を飲んだ私の鼻先に人差し指をつきつけ、
「俺のときも林檎のときもリップのときも冷めてたお前が、あいつだけは絶対に幸せにならなければならないと言うんだろう」
人が動揺している間に、
「お前はあいつだけ、特別扱いしてるじゃないか」



 鉄だか銅だか分からないものが頭の中で衝突したなと思う刹那、自分でも信じられない前触れのなさで、両頬にカッと血が昇った。
「―― へ?」
 「点火」に驚いたのはマヒトも一緒だ。普段あんまり外しているから、あたりが出るなんて思いも寄らなかったに違いない。
 大体彼が相手にしているのは私だ。林檎じゃあるまいし。こんなセオリー通りな……
「え、うわ!」
 坊主は思いも寄らない反応のよさに動転し、ようやく踏み込みすぎたことを悟り、汗をかきながらわたわたと手を振った。
「す、すまん、つい……」
 喘ぐような謝罪を聞いた瞬間、私はとうとう爆発した。
 工房にマヒトが入ってきたことやら、鈍いと見くびっていたそいつに見事に引っ掛けられたことやら、顔が赤くなった恥やら――
「ぐえっ!!」
 気が付いた時には、踏み込むと同時、調子に乗ったマヒトの顎にアッパーカットを食らわしていた。勿論グーである。
 一晩の総決算としてあんまりな仕打ちだと思うが、毒物師の工房に入り込むからこんなことになるのである。





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