コントラコスモス -19-
ContraCosmos




「今更落ち込むなよ」
 リップは虫除けの香を焚くランプを分解して、中を掃除しながら言った。四角いテーブル対面には巨漢の坊主が突っ伏して、本日の失言に飽きもせずブルーになっている。
「お前、失言大王とか名前もらってるんじゃないか」
 と、風が吹いて転がりそうになった極小のネジを、おっと、と引きとめる。
 然様、ここは店ではない。とある四階建ての建物の屋上である。周りにも同じくらいの高さの家や店が並んでいるが、そのどれでも今日に限っては屋上で作業する人の姿が見られた。
 今夜は月祭りの夜なのである。しかも数年ぶり、かなり本格的な月蝕が見られるとの大学の発表だった。数日降り続いた雨もサービスのように昨日上がり、朝から空は抜けるような快晴で、これで血が騒がない方がどうかしている。
 普段のリップなら、勝手に酒は飲んでも座の準備などはしなかったであろうが、花屋の頼みとあっては無下に出来なかった。場をこしらえてじゃあ誰を呼ぶのかと聞くと、『ミノスさんたち』との返答には苦笑したが。
「俺、人間として何かが決定的に足りないんだ、きっと……」
「んー?」
 腹の上で磨いたガラスを器用に元にはめなおしつつ、リップは彼のうなり声に反応した。
「いつだって人の気分を害してばかりで……」
「でも悪気があってやってるわけじゃないだろ?」
 するとマヒトは顔をちょっとだけ上げ、悩みにどんよりした目を見せた。
「勿論これっぽっちも悪気はないよ。だが、あんまり頭が鈍いのも犯罪だと思わないか」
 ……分かってるじゃないか。リップは内心で呟いた。
 口に出さなかったのは偏に自分のためだ。
 これ以上この坊主が落ち込んだらこの後うっとおしい。花屋の招待客の中にはこいつも入っているのだから。
 放っている間にまた彼の頭は腕の中に落ちた。くぐもった声がじめじめと続く。
「この間はミノスの機嫌も損ねたし……。結局、欠陥品なんだよ。最近やっと気付いた……」
「まあ殴ってたけどなあ」
 五日ほど前、聖庁で毒がらみのちょっとしたゴタゴタがあった。マヒトはその件の最後にいきなり呼ばれてほんの少し関わっただけだったのだが、もう事件が片付いたという頃に不用意な発言をして薬草屋の女主人ミノスを怒らせ、ご丁寧に彼女からアッパーカットを食らったそうだ。
「――何やってんの?」
 とは、店の前で顎を押さえてうめいている彼を見つけたときのリップの台詞である。以来、マヒトは怖くて店に入れないと言ってその周りをうろうろしていた。
「そんなに気にしなくてもいいと思うけどな。大体お前のその失言癖は今に始まったことじゃないだろ。子供の頃から結構損してたんじゃないの?」
「うー……、自覚はないが……」
 そうかもしれん。という彼の前に完成した小さなランプをとん、と置く。
「何を言ったか知らないけど、ミノスは根に持つタイプじゃないと思うけどね」
 坊主は顔を起こす。
「だってお茶に毒を入れられたらどうするんだ」
「そんなすごい失言だったの?」
「というか……。寧ろ見てはならないものを見てしまったというか……。もう俺は石になるか消されるか……」
 彼は言いよどみ、汗を浮かべた顔を両手で覆った。
「真昼の怪談だな」
 リップは立ち上がって伸びをした。屋上には敷物の上にテーブルと人数分の椅子。葡萄酒が一箱にグラス類、小皿などが出ている。
「あ、後は果物とかか」
 と、呟くほどに、下に通じるドアが開いて階段から花屋の女性が現れた。長い髪の毛を巧みにまとめて、やり手の商売人らしく実に身奇麗にしている。
「はい、食べ物」
 近寄ったリップに手にしていた籠をごっそり渡した。
「もう一時間もしないうちに暗くなるわ。……準備はいいようね、ご苦労様。
 後はミノスさんのお店に行って――、ミノスさん達を呼んできてよ」
「ワタクシがですか」
「だって私、これから店を閉めなきゃなんないし……(マヒトを示し)出入り禁止なんでしょ?」
 リップは頭の後ろをかく。
「来なくても知らないよ?」
「別に無理にお連れしなくてもいいわよ。でもこの間話した時はそれほど嫌そうじゃなかったけどな。
 勘だけど、私ミノスさんはこういう天文とか、嫌いじゃないと思うわ」
「前から聞こうと思ってたんだけど、君等いつの間に仲良くなったの?」
「私にだって昼もあれば夜もあるの」
 リップが下りて行ってテーブルに一人になったマヒトだが、すぐに花屋が灯りを持って戻ってきてくれた。
 意外と立て込んだ地区なのでしっかりとは見えないが、太陽は十分ほど前に西に消え、空からはその残光が段々と夜の暗さに薄れ始めていた。
「何だかお元気ないんですね、神父様」
 さっきまでリップが座っていた所に燭台を置き、ランプの窓を開けて虫除けの香を放り込みながら、彼女が言う。
「あ、はあ」
 彼はさすがに遠慮してきちんと座った。別に緊張する謂れはないのかもしれないが、今までリップの恋人という女性とまともに話をしたことがないので、どう接していいかよく分からない。
 彼にくっついてここに邪魔したのも今日が初めてだったし、少し年上というのもやりにくさの一因だ。
「マヒトで結構です。普段から敬称を用いていただくほど立派な聖職者ではありませんので……」
 すると花屋はクスッと笑った。
「ではマヒトさんで。それにしても落ち込んでらっしゃるのね。何かお嫌なことでもあったんですか?」
「いえ、自分が悪いんです。……どうも私は注意力が足らなくて……。あ、食べ物広げますか?」
「ええ。ありがとうございます。お願いします」
 マヒトはただ座っているだけなのが今更申し訳なくなり、先ほど女性が持ってきた籠の中に収められた果物や、軽食などをテーブルの上に並べた。やがて籠が空になったので立ち上がり、葡萄酒の入ったケースからニ本を取り出して、配置する。
 こういうことならミサや晩餐会でよくやっているので手際は悪くない。俺、料理人になればよかったかなあと思いながら出来栄えを見ていると、女性の白い手が真ん中に、籠に入った小さな花束を置いた。
「あ、かわいらしいなあ」
 白と薄紅色のコスモスだった。マヒトはその花が好きだったので、似合わない言葉を思わず素で呟く。
 それからはっと気恥ずかしくなり、何となくまたやったと思いながら恐る恐る彼女の表情を伺った。
 だが花屋の主人はあさっての方向を見ていた。安心して息を吐く。
「私、子供の頃からずっとここに住んでるんです」
 その時、籠を片付けながら、ふいに彼女が口を開いた。
「え? ああ、そうなんですか……」
「ええ。だから神父様や尼僧の方々とも両親の代から色々お付き合いがあるんですけどね」
「はい」
戻ってきて彼の右隣の面に座る。
「手ずからお皿を並べてくださったのはあなたが初めてです」
 浮かび上がり始めた蝋燭の灯りの中で美人ににっこりされて、マヒトは少し汗が出た。
「あ、いえ、私は本当に若輩ですから、これくらいは……」
「耳障りのいいことを言う人は、市井の者でも、聖庁の方でもいくらでもいます。でも実際に手を動かしてくださる方はとても少ないんですよ。
 きっとあなたは聖庁でも毎日こんなふうに、人々に尽くしていらっしゃるんでしょうね。確かに必要な時にちょっと気の利いた台詞が言えるような知恵も、生きていくためには必要かもしれませんけど……、でもそれは俗世の知恵で、天国に入るための知恵じゃありませんもの。
 あなたが仕えているその方は、あなたのお仕事をちゃんと見てらっしゃいますよ。大丈夫です。
 それに今はあまりお気づきでないかもしれませんけど、あなたの誠実さそのものを信じて教会に通っている信徒の数は、決して少なくないと思いますよ。
 だから、あまりご自身を、小さく考えないで下さいね」
「…………」
 それは、相手の立場と信仰とプライドを慮った、大層大人な言葉だった。落ちこぼれのマヒトは、はっきり言ってこれほど人から気を使ってもらったことがなかったので、ちょっと体が浮き上がる。
 その感じがあまりに素敵で、今日あった失言の記憶も初対面の遠慮もどっかへ行ってしまった。テーブルで固まったまましばらく声が出なかったのは、巨体に感動が染み渡るのに時間がかかったからだ。
「あ、申し上げ過ぎたかしら、ごめんなさいね」
 マヒトはぶんぶんと手を振った。
「いえ! そんなことないです、心に染みました! ありがとうございます!」
「ほとんど初対面なのに僭越なこと言ってごめんなさい。何も分からない女の独り言ですから、軽く流しちゃってください」
「とんでもありませんよ! 本当に……」
 それから彼らはリップが客を連れて戻ってくるまで、色々な話をした。
 すっかり暗くなった階段を通って屋上に現れたリップは、にっこり笑った恋人を見、また出て行ったときとうって変わって元気になっているマヒトを見ると、何があったか大体察し、思わず苦笑を浮かべた。
「お前な、神父が人生相談してもらってどうすんだ」





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