「ああ、あと一週間足らずでまた年とっちゃうなあ……」
「へー、林檎、誕生日なの?」
「そうなんです。もう一七ですよ、嫌になっちゃう。リップさん、お祝いに何か下さい」
「そりゃ上げてもいいけど、何が欲しいの」
「あ、でもやっぱダメだ。花屋さんに悪いもの」
「は?」
「リップさんは花屋さんがいるから他の女の子にプレゼントとかしちゃダメなんです」
「そうなんですか」
「もうその人のことだけしか見えなくてその人の誕生日のことしか関心がなくないとダメです」
「そうなんですか」
「自分の恋人が一番大事って、当たり前でしょ?」
「それが俺はどーも世間に疎いらしくてさあ」
カウンターに肘をついてリップはニヤニヤと笑う。何となくからかわれたことを察したらしく林檎は手にしていたふきんで彼を軽く叩いた。
私は一人、彼らから離れて材料を磨り潰している。白い乳鉢の壁面に白い棒を押し付け、粉末にするだけのありきたりな作業なのに、何か頭の芯がはっきりせず、駄弁に走る林檎を嗜めることもなかった。
ここしばらく体調もあまりよくなかったから、彼らも私が静かでもあまり気にしない風で、よかった……としか、言い様がない。
他に言い様がない。
ヤライはあの後、この店と地下の工房を見て回り、まあ毒の一つや二つは作れそうだなという内容のことを言って、早朝どこかへ出かけていった。
私は一人になって、一体どうしたものかと考えたが、考えている間に辺りは明るくなってくるし、とにかく誰にも気づかれないようにとばたばたしている間に、根本的な行動は何も取れないまま、日常となった。
朝一で二日酔いのリップがやって来て、林檎が遅刻してやって来て、時折やってくる婆さんの客が一人。 噂話、無駄話をしている間に午前が終わった。昼食もいつもと同じように済み、ヤライは帰ってこない。
このまま帰ってこなければと望むほど現実を見ないわけにはいかなかった。せめて夜、店が閉まってから戻ればいいと願ったが、それすら結局は夢の話だった。
午後三時になり、いつもの通りマヒトが来る。彼は今度東部の都市で開かれる医学会に参加できそうなんだと笑顔で話していた。
林檎は彼にも誕生日の話をしていたが、マヒトはプレゼントのことなんか思いもつかない。そうなると逆に何かよこせとは言いにくいらしく、彼らはリップが楽器をいじる隣で、実にかみ合わない会話をしていた。
そこに、久しぶりに家主の奥方が姿を見せた。あの「地獄の夫婦」の片割れである。彼女は忙しい忙しいと言いながら店に入ってきて暇な話題を二、三振りまいた後、
「そういや昨日の晩ずいぶん大きな物音がしてたけど、何かあったの?」
と、客たちの前で私に聞いた。
「あ、ちょっと椅子をひっくり返してしまって……」
「そんな音だったかしら? 私もう寝床にいたんだけれど、びっくりして目がさめちゃったわ」
「すいません。気をつけますから……」
「椅子なんかひっくり返したんですかー? 珍しいですねえ」
林檎が意外そうな顔で私を見る。
「いつも灯りがなくたって地下まで降りていける猫みたいな人なのに」
「まあ私は気にしてないんだけどね、他にも住んでる人がいるわけだし、近所も近いから一応ね。うるさい人はうるさいのよこういうこと。本当に私は全然気にしないんだけど、一度もめ出すとあれだから……」
『地獄』称号面目躍如のくどい話はなかなか終わらなかった。もはや後半は私も生返事だったので、彼女の後ろにふらりと、人影が現れたことに気づくのが遅れる。
「その物音は僕が原因だと思いますよ」
背後から言われたのだ。奥方が飛び上がるのも道理だろう。常連たちも驚いて入り口を見る。
私は喉もとを鷲づかみにされたような気分で、視線にありったけの懇願を込めて、そこに立つヤライの涼しげな顔を睨みつけた。
「あ、あら、あなたどなた?」
奥方は人と見れば必ず吟味する。体を引いて、彼の全身をじろじろと眺め回しながら、口では微笑みながら聞いた。
ヤライは悠然とした態度で微笑し、愛想よく、隠し立てもなくそれに答える。
「僕はあの子の父親です」
「え―――ッ?!」
林檎と奥方と、二人分の嬌声が店の中にキンキン響いた。今のはきっと道を歩いていても聞こえただろう。
「え――ッ?! え―――ッ?! え――――ッ?!」
「やかましい」
林檎がいつまでも騒ぐものでイラついた。勿論女二人は全く構いつけない。
「まァ! ミノスさんにお父様がいたなんて全く存じ上げなくて、ごめんなさいね!」
「えー! 何かものすごくお若くないですか?! あ、でもミノスさんもそうか、こう見えてもまだ二十代だから……。
でも、えー?!」
ヤライは、切れ長の目をした整った顔立ちの男だ。身長も高いし確かに若く見えるので、女の受けは決して悪くない。
「馬車の都合で深夜の到着になってしまいましてね……。何の前触れもなく訪ねてきたもので、あの子も驚いてしまって。それで少し昨晩騒がしかったのです、申し訳ありませんでした」
「いえいえ、いいのよ! まあ今度お茶でもご一緒しましょう? いつもミノスさんにはお世話になっているんですよ」
「ありがとうございます。私も仕事で来ていますので事によるとお付き合い出来かねるかもしれませんが……」
「まァ! お仕事って、何のお仕事を?」
お前が秘密にしておきたいことはちゃんと隠してやったろう。
姦しい女を適当にいなしながら、ヤライの暗い目がそう言っていた。
私はにらみ続けねばと思いながらも唇を噛み、負け惜しみのような情けない面で、手元を見る。勇気がなくてとても、リップとマヒトの反応を確かめることが出来なかった。
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