夜半。冷え切った通路を一人、荷物を持って歩いて行く。
石畳に私の足音だけが響いている。口元には白い雲が吐かれては消え、吐かれては霧散していく。
ああやっと、一人きりになれたなと思う。
ヤライ以外の常連たちを避ける理由は何も無いが、今となっては彼らもヤライと同等かそれ以上に一緒に居るのが怖く、正直一人になれてほっとしていた。
そんなことをあの時も思った。一人、夜に孤児院を抜け出し、でたらめな通行証で城門を越え、心臓を抑えながら走り、走り、走ったとき。
やった。やった。やったぞ、やった。
たった一人。何もかも捨てて、たった一人だ。しかし思えば変なのは、私はそもそもたった一人だったはずなのに(孤児院!)、それでも尚且つこうやって、命をかけて独りぼっちにならなければならないんだなと。
人間に、親がいなければいいのだ。私の頭の中からそんな夢は金輪際消してしまおう。私はこれから、どこまでもたった一人であり、いつまでも自由だ――。
つまらない夢想だった。結局私も林檎ばりに馬鹿なのだ。その証拠に、こうやってヤライが立ち返ってくれば途端、血は怯え、体が凍り、思考停止になってしまう。
親は消えない。その精臭は消えてなくならない。私が生きている限り、彼らは存在し、どこまで逃げても追って来る。
そしてそれに負けるのは子の心ではない。
血であり――、体である。
「ご苦労。確かに全てそろっているようだ。しかしこれから先は大変だな。雪の季節になっては、採取も楽ではなかろう?」
「コーノス……」
いつもの執務室で、普段どおり遅くまで仕事をしているコーノスの背中を、私は呼んだ。
「うん?」
だが自らを省みれば、振り向いた痩せ男にかける言葉は見つからなかった。私はいや、なんでもないと言って、顔を伏せた。
林檎が一七歳になるという。
私があれに会ったのも、一七歳の時のことだった。私は当時王都の官吏養成コースを修めながら、夜間には一人工房につめて毒物の研究をしたり、まれに実務に関わるという日々だった。
そもそも他人と縁が薄かった私だが、その頃にはますます関係がなくなり、友人も本当にごく僅かで、過程が修了しさえすればもう他人の記憶から消えて行くばかり、実に毒物師らしい道を順調に歩いていた。
ある晩、王宮から寮に帰るまでの徒歩二十分ほどの道の最中で、見知らぬ男に呼び止められた。本当に知らない男で、教官でもなければ寮の関係者でもなく、商人か旅人といった格好をしていた。
「チヒロ」
男は私の名前を知っていた。私の誕生日を知っていた。私の母の話をして、自分はヤライという者だと名乗った。
遥か昔に聞いた名だった。
ぽかんとする私に彼は、手のひらに納まるほどの小さな紙包みを渡して、贈り物だと言う。
彼はまだ私が唖然としている間に人目を避ける素早さで消えた。手の中に、紙包みだけが残っていた。
寮の部屋で、うるさい管理者が寝静まった頃、こっそりとそれを開けると、中から古びた指輪が一つ、転がり出してきた。
それがなんの指輪なのか分からなかったが、私は何かただの装飾品でないような思いがした。私にとって馴染みのない家族とか、夫婦とかいうものを連想させるのだ。
紙包みの中にも、外にも、何も書かれていなかった。私は恐ろしい罠だと思った。同時にすさまじく惹かれるのも分かった。
ヤライという男がどれほど有能な毒物師であるかは工房が物語っている。私は子供として現実の彼を全く知らなかったが、その知識に触れることで彼を尊敬し、密かに誇らしい思いを抱いていた。
だが現実の形をとって会いに来たそれは、そんなあやふやなものとはまるで別種だった。強烈だった。皮膚が騒ぎ立つのが分かった。
私は眠れなかった。こんなことはかつてない。翌朝が待ち遠しかった。一晩中堰を切った希望に翻弄されて過ごした。
だが翌日、その翌日、そのまた翌日。どこをどのように歩いても男は来なかった。
あの場所で待っていたということは、ある程度私の行動を把握しているのだろうが、一瞬しか見なかったおぼろげな顔と声はまるで夢だったのではないかと思うほど曖昧になっていった。
たっぷり一月も経った頃、つまりすっかりあきらめていた頃、ヤライは再び現れた。
顔を合わせた途端失語になって立ちすくむ私に微笑むと、彼は任務で来られなかったと。
そして、近くに自分が今使っている部屋があるから、寄るか? と言った。
私は恐ろしい罠だと思った。同時にすさまじく惹かれるのも分かった。
ヤライはそこで私を犯した。
-つづく-
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