コントラコスモス -20-
ContraCosmos





 昼下がり。三つある窓から三本の白い帯が、店の床に明るい四角を刻んでいる。
 黒い靴でそれを踏み、無人の店内で椅子を引くと、腰掛けたヤライは足を組んで背を反らした。思う存分寝倒してかえって緩んでいる口元で、大あくびをする。
 ……コルタ・ヌォーヴォ。聖都とは言っても、所詮は田舎街だな。この静けさはどうだ。
 もっと街は喧しく派手で、猥雑さがなければならない。王都カステルヴィッツはまさにそういう場所だが、ここは偽善的で反吐が出そうだ。
 どこを見てもあちこちに坊主や尼僧がいて、教会の尖塔がど真ん中、一時間ごとに鐘を鳴らして自らの存在を誇示する。住民たちもみな気取っていて、頭の程度は低いくせに行儀だけは妙によく、気に食わない。
 とは言え、状態は悪くなく、ヤライは満足だった。
 事前に重々調べてあったのだから当然だが。
 チヒロは一度犯してやったらすっかり大人しくなって前よりも従順な程だ。今日も任務のための毒物作成を命じたら、材料が足りないと言って原料を採りに出かけた。
 全く容易い――。
 この分なら任務が終わったら王都に連れ帰って存分に使役できる。そもそもそのために自分が育て上げた女であり、毒物師なのだから。
 だが、あれももう子供ではない。その知能には注意が必要だ。今日、林檎とかいうあの小娘をわざわざ連れて出かけたのも、あれなりの用心の現われだろう。されるがままでいて、うまく防御されている部分もありそうだ。
 油断してはならない。なにしろあの女の娘だ。常に急所を押さえておかないと、稀に意表を突くようなことをやってのける。課程修了を前に、突如行方をくらましたあの時のように。
 今思い出しても腹が立つ。あれを回想するだけで三十回は打擲出来そうだ。……そういや、昨晩腹立ち紛れに髪を引っ張ってやったら、悔しそうな顔でぼろぼろ涙を流しやがったっけ……。
 記憶に悦ぶ表情がふいに引き締まった。誰かが扉を叩いている。客のようだ。
「おーい。誰もいないのか? おかしいなあ、今日は休みだっけ?」
 気の抜けた声に聞き覚えがある。やたら図体の大きな頭の鈍そうな若い坊主だ。
「…………」
 無視しようかとも思ったが、ヤライは椅子を降りて扉へ近づいた。馬鹿を相手にするのは面倒だが、あの危険な女を御するに無意味ではない。野犬の嗅覚でそう判断したのである。
「――あ。すみません、お父上でしたね。今日は、店はお休みですか?」
 何というか、無闇に健康そうな男だ。体は大きいし、骨も太い。朴訥そうな顔つきといい、警戒心のまるでない口調といい、坊主というより出稼ぎの労働者か農夫か、樵である。
 本気で相手にしたらヤライは傷ついたかもしれない。だが年下の純朴な学生など荒んだ彼の恐れるところではなかった。内心の侮蔑を慎んで笑顔を見せる。
「ああ、ミノスは林檎さんと薬草の採取に出かけたよ」
「あ、そうですか。じゃあ臨時休業ですね。時々あるんです……」
「まあよかったらお入りなさい。あの子がいないから、お茶はお出し出来ないが、少しお話だけでもどうかな?」
「え、よろしいんですか? でも、寛いでいらっしゃったんでは……?」
 寛ぐ?
 ヤライは心中で笑った。その一言で相手が本気で何も勘付くことの出来ない、世間知らずののろまだと分かった。
 たくさん信じ込ませておいて最後に手ひどく裏切ってやりたいようなタイプだ。
「いいとも。それにお友達を無下にしたとあっては、あの子に怒られてしまうかもしれないから」
「ああ、すみません。じゃあ……」
 巨漢のうすのろは店に入ってきた。とても簡単だった。まるで最初に、チヒロを引っ掛けたときのようだ。
 二人はカウンターの席についた。坊主は黒いつばのある帽子を取り、隣の空いた椅子に置く。
「ええと、すまない。君の名前を聞いていなかった」
「あ、私はマヒトです。聖庁で勉学をしながら聖務についています」
「そうか、マヒト君か。あの子と付き合いは長いのかな? 馬鹿みたいな質問で申し訳ないが、あの子は聞いてもあまり、話してくれないから……」
「ああ……そうなんですか? お父上にもそうなのか」
「私にも?」
「いや、彼女は自分のことについてあまり喋らないんです。だからここに来る前、何をしていたのかとか、我々はまるで知らないんですよ」
「ほう?」
 ヤライの目が興味深げに動く。
「まあ話の端々から何か読み取れるときもあるんですが、それもたくさんではなくて……。特にリップと違って私は鈍いので」
「リップ?」
「あ、ご覧になってたかな、昨日私の隣に座っていた男ですが」
 勿論見ている。だがどうにも印象が薄かった。この男の体の後ろに隠れていたのかもしれない。
「彼なんかは他人の気持ちが分かるんです。でも私はどうも駄目で……。時々、知らず知らずミノスの気に障るようなことを言って怒らせてしまうこともあるんですよ」
「あの子に怒られたら怖いだろう」
「怖いです」
 マヒトは苦笑いして正直に言う。
「でも悪いのは私ですから。この間も、王都から来た友達のことでひどく怒らせてしまって」
「――王都から?」
「ええ、詳しくは知らないんですが、学生時代の友達とか」
「レジナルド・クレスのことか?」
「さあ? 私は名前を知らないままで……」
 ヤライは顎を引いた。頬に影が落ちて年相応に見える。押さえつけたような静かな声で言った。
「彼には世話になったようだ。そうか再会したのか。初めて知ったよ」
「よく知りませんが、結構大切な友達だったみたいですね。それについて下手に言ったもんだから、どうもあれ以来、ミノスが私に対して身構えているような感じで」
「…………」
 マヒトは一人で内省と後悔モードに入り、ヤライの目の色が暗く沈んだことに気づかなかった。
「出来ることならあの発言を取り消したいですよ」
「言っておいてあげるよ。君がすごく反省していたって」
「すみません、ありがとうございます。
 ……そうだ。立ち入ったことをお伺いしますが、お父上はミノスが薬草以外の商品も商っているのをご存知ですか?」
「というと?」
「あの……。言いにくいんですが、びっくりなさならないで下さいね。――毒物を……」
 こいつ本当に、何ひとつ知らないな。
ヤライはおかしいのを通り越してちょっと呆れる。
 知っているも何も、今日チヒロが出かけたのは、自分が命令した毒物を精製するためだ。
 とぼけようか驚こうかと定めていたその時、幸いなことに来客があり、ヤライは確たる返事をしないで済んだ。
「あら、こんにちは……。買い物に来たんだけど、ミノスさんはお留守?」
 開錠したままのドアから入ってきたのは、見たことのない女だ。年はさほど若くないが身奇麗で……、実にうまそうな香りがしている。
「あ、こんにちは! この間はどうもご馳走様でした」
 マヒトが笑顔で頭を下げた。女も微笑んで小首を傾げる。二人の間に円が描けそうなほどの和やかな雰囲気に、ヤライは心中で目を丸くしていた。
 ――驚いたね、どうも。
 あの闇に生まれたチヒロも一皮向けばこんなありきたりな趣味をしていたのか。隣近所で微笑みあって挨拶だの、友達同士で食事だの、常連客と喧嘩したり仲直りしたり、そんなつまらん生活をここで営んでは喜んでいたのか。
 ――どうもあいつは、生きるということがどういうことかまるで分かっていないらしい。
 ヤライは本気でそう思った。
 毒物という多大な権力を手にしていながら、何一つ知らず何一つ出来ない連中と同じレベルに落ち、ごろごろハーブを練っていい気になっていたとは……。資源の無駄にも程がある。
「え? ……ミノスさんのお父様?」
「そうなんですよ、昨日からいらしてて。……こちらはお世話になっている花屋さんです」
「ああ、どうも」
 呆れながらもヤライは女に笑みを見せた。そうしながらなるほどとも思い始めていた。
 なるほど、確かにその傾向はあったかもしれない。あのクレスという小僧に見せた親しみは、思えばその部類に属していたではないか。そう考えが至った時、
――愚かだな、チヒロ……。
 今までとは違うおかしみで、ヤライは忍び笑いを噛み殺す。
 あの時はたった一人だった。だが今では守らねばならない人間が全体何人いる? そのうち何人が自分の身を守れる? 俺にはお前の友人を害することなんて雑作もないことだ。
 踵を見つけた。
 愚かなチヒロ。こんな残飯どもに情けをかけてあたら弱みを抱え込むなどと……。自らの立場を忘れてそんな不注意に甘んじたことを、心底後悔させてやる。
 ふいに物音がしたかと思うと、慌てたような早さでドアが開く。中に誰かがいることに驚いて駆け込んできたミノスが、籠を手にしたまま、強張った表情で入り口に立っていた。
「あ、おかえりミノ――」
「何をしている!!」
 言葉の途中で怒鳴りつけられた坊主がまごつく。そうだろうな、ヤライは唇を歪ました。
 この単細胞に「本当のこと」を言えない以上、焦るミノスが取りえる行動はそれ以外にないだろう。
「何ってお前。お父上とお話を――」
「なぜ閉店中の店に勝手に入った?! 誰に断って私の店に?!」
 怒鳴りつけられたマヒトの目、花屋の目、後ろに立つ林檎の目。彼らの驚きの中でミノスの夢がきらきらと自滅して行く。
「…………」
 一体どうしたんだ、ミノス?
 坊主が傷ついた目でそう語っていた。
 しかしミノスには、その理由を語る言葉がない。ただこの人間たちと、自分の父親とを引き剥がさねばならないという強迫に取り乱して彼女は額を押さえ、言った。
「頭痛がする、帰ってくれ……! 林檎も今日はもういい。閉店にする。
 さあ、みんな今すぐ出て行ってくれ!!」
 ちょっと何なんですか、いい加減にしてくださいよ、どうしてマヒトさんが怒られなきゃいけないんですか、ワケわかんない。頭変なんじゃないですか?!
 花屋が喚く林檎を連れ出す。マヒトも退散を決意して帽子を取ったが、入り口で立ち止まり、呟くように呼んだ。
「ミノス……」
 横を向き、疲労している彼女の後ろには彼女の父親がいて、無言のまま二人を見ている。
「――帰れ!」
 五秒後、吐き捨てた命令どおり。
 扉は閉まった。
「どういうつもりだ……!!」
 ようやくめまいが納まると、ミノスは憎しみを込めて、冷笑するヤライを睨みつけた。
 ヤライはのびのびと両手を伸ばし、後ろのカウンターに沿って横に広げる。
「既に承知だろう」
「何だと?!」
「……これからお前は毒物を作り、私の代わりにあの間抜けなコーノスを誤魔化して聖庁へ入り、標的を殺せ」
 いきり立っている人間の足元をすくってやるほど痛快なことはない。
「あの残飯どもを殺されたくなかったらな」




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