コントラコスモス -22-
ContraCosmos




「どうしたね、ミノス。今日は約束してないと思うが」
 今日もコーノスは執務室にいた。だが、立ち上がって上着を着込んでいる。帰るところに居合わせたらしい。
 口実。適当な口実――
「貴族年鑑を見せてもらいたいんだ。なんだかきな臭そうな依頼が来たから、調べるものを調べてあまり込み入ってたら蹴ろうと思って」
「そうか、商売繁盛もなかなか大変だな」
 コーノスはもとより私に、この部屋の蔵書は好きにしていいと言ってくれている。「貴族年鑑」のような、馬鹿げて重たい本を調べに来ることもしょっちゅうだ。
 私は習慣通りに振る舞い、本棚の前に立った。背中に、何も知らないコーノスの気を許した声がかけられる。
「悪いが私は先に帰るぞ。満足したら勝手に帰ってくれ」
「こんな時刻から家に帰って休むなんて珍しいじゃないか」
「明日は一五日ぶりの休暇だ。起きたら家にいるのがいい」
「なるほど」
「どうした? 見つからないのか?」
 あ。と思う間にコーノスが隣へ歩いてきた。心臓が蹴り飛ばされ、汗が出る。
 私は今更慌てて、「貴族年鑑」へ手を伸ばした。適当な項を開き、ばらばらとめくる。コーノスは何も気づかないまま私を見やり、後見人らしい台詞を口にした。
「あまり変な件に首を突っ込むなよ。私にだって手に負えない問題があるぞ」
「――」
 百も承知だ。と言い返すのが常の我々の関係かもしれない。だが彼の信頼を裏切って、正当な理由も無く、聖庁の人材を消しに来た私は不甲斐なくもそのまま絶句してしまった。
 しかし、注意が反れているのはコーノスも同じなのだろう。私が内心焦って、取り繕う言葉を探している間に、すっと私の側を離れて入り口へ向かう。
「ではな、ミノス。先に失礼するぞ。私はあさっての昼頃また登庁する。何か急ぎの連絡があれば家のほうへ寄越してくれ」
「家族団欒を邪魔するほど野暮じゃない」
「ありがたい言葉だ。そう願うよ」
 廊下に続く扉が、神経質な男の手で静かに閉められる。ややあってカチャン、と鍵が回り、それから足音が静まり返った廊下を徐々に遠のいて行った。
 ごめん、コーノス。
ごめん。
 私は貴族年鑑を棚にしまい、足音と気配が消えるまで充分待って後、その鍵を、内側から簡単に外した。
 灯りも消えた、冷えた廊下が私を出迎える。バラシンは独身者で聖庁内に居室を持っている。その位置はあらかじめヤライが突き止めていた。
 私の足は従順にそこへ向かう。精神は騒いで、取り乱し、泣きそうだったが、体は、師の言葉に逆らうことは出来ぬとでもいうように流れていくのだった。
 いや、体が心と完全に分離した行動を取ることなど有り得ない。義理立てて騒ぐ表層の奥で、私の心はこの私の許しがたい弱さを許しているのだ。
 体はその欺瞞を見抜いていて、それゆえ最も内部に近いほうへ棹さしているに過ぎない。
 私は、吐き気を覚え首をぐいぐいと締め上げてやりたいと思うほど、こんな自分が嫌いだ。けれども、この不愉快の先に、あるものが、春のようなものが、私を陶然とさせている。
 私は独りではない。
 世界にたった独りではない。
 私には、ヤライがいる。たとえその存在が、私の周囲の人々を悉く毒するようなどうしようもないものだとしても。
 なんて卑小な人間だ。私は最低だ。たかが私個人の孤独に甘ったるい薬をすり込むために、コーノスの努力や、バラシンの人生や、私を取り巻く彼らの信頼を粉々にするつもりか。
 格好つけても無駄だよチヒロ。
 お前はそういう人間で、今迷い無く歩を進めている足も、その付け根にあるものも、その事実をよくよく知っている。
 思い出すといい。ヤライが来襲してお前を突き倒した時、お前の手首にも腹にも乳房にも、背中にも傷が出来たけれど――――あそこには、出来なかったろう。
 思考がショートした。これ以上進むことは私には出来なかった。歪んだ口元で自分自身を嘲笑しながら私は歩いた。廊下では誰にも会わなかった。
 頬が冷たいなと思ったらいつの間にか濡れていた。
 理由がとんと分からなかった。ただ刻み付けられた毒物師としての技術で、前へ進んでいく。
 やがて、私の聖庁に対する知識とヤライの調査が交差した先に、書記官バラシンの居室の扉が現れる。
 時刻は既に午前四時前。ゆっくりと取っ手を回してみると、中途ではっきりとした抵抗にあった。施錠されている。
 だが下級官僚の私室の鍵の程度など知れている。後のことを考える必要も無いのだから、私は外套の内側からナイフを取り出し、隙間から強引に、だが最低限の音でそれを開けた。
 コーノスの執務室に比べたら、気の毒なほど簡素で地味な内部へ、足を踏み入れる。灯りは消えていた。ただ薄いカーテンのあなたから月明かりだけが、辺りにかすかな手がかりを与えていた。
 その窓の下に寝台があり、標的バラシンはそこで横になって眠っていた。
 人違いをするのもバカらしいので、寝台の反対側にある机から適当な書類を一つ取って、窓とベッドの間に立つ。宛名や署名を確認した。間違いない。
 視覚で体重を量るが、致死量も問題なさそうだ。口は閉じているから、皮下注射。
 そう知れた以上さっさと事を済ますに限る。坊主どもは四時半には起き出してくる。それほど時間は無い。
――迷いは消せ。
 丸まった書類をベッドの上に投げ出し、その月明かりの下、毒の入った瓶と注射器のケースを取り出すために、私はポケットに手を入れた。
 ここでの生活も関係も夢も、全て終わりになって、また権力と泥とヤライのさなかをさすらう毒屋に戻るんだなと、そう思ったところまで覚えている。




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