コントラコスモス -22-
ContraCosmos




 初冬の夜明けは遅い。午前五時に迫りながら、未だ痛いほど星の見える空の下を、店まで歩いて戻ってきた。
 緊張が解けた後の、御馴染みの不整脈が外套と衣服の下で不気味なほど踊っている。フードの中でうつむいた私の唇は、歪んだままだった。
 玄関に立ち、店の鍵を取り出したその時、
「おかえり」
 頭上からまったく普通に、声が降ってきた。
 見上げなくても分かった。四階に昼夜逆転のアル中、リップ。
 この男が皮膚からなんらの感情も発さないのは、出さないように調整しているからなのか、もともと何も無いからなのか、未明だ。
 私は片手を上げて彼に挨拶し、店の中に入った。ほんの少し暖かな空気に触れ、フードを外す。
 そしてカウンターの奥から、地下へ降りた。
「遅い」
 ヤライは、工房の椅子に座っていた。私の顔を見るなり鋭く言う。
「たかが一件の毒殺に何時間かけている。それでも俺の娘か? その年になってお使いすら満足に出来んのか」
「…………」
「まァいい。さっさと荷物をまとめろ。三十分だ。夜明けと同時に出発するぞ」
「……蔵書をまとめるのには最低一時間は必要だ」
「知ったことか!! 何故準備しておかなかった?! 大体貴様のつまらん蔵書なんぞ捨ててしまえ。俺の工房に必要なものは全て揃っている」
「……愛着があるんだよ。五年もここにいる」
 私は外套から小さな瓶を取り出し、コトリとテーブルの上に置いた。
「あんたと過ごした時間より長い」
 瓶の頭を離したその掌で、次の一息に払い落とす。それはいつかポワントスがしたように、面白いように的確に、私とヤライの中間に落ちた。
 薄いガラスの砕ける音。そして月光の下、使われることの無かった不遇な中身が、共にぽろぽろと丸く散って行った。
 沈黙の中で、ヤライの双眸が狂気の色を帯びて私を見つめる。顔面の筋肉が痙攣し、唇は牙を剥き、糸が切れるかのように突然爆発した。
「貴様ァ!!」
 拳が私の頬をえぐり飛ばす。私は右から戸棚に突っ込み、二、三の本と一緒に床に落ちた。
「あいたたた」
 もらす襟首をつかみ上げられ、反対側の壁に叩きつけられる。手を離してくれればいいのに、そのまま揺さぶるものだから何度も背中、少し遅れて後頭が壁で殴られる。特に頭は、先日もやられた場所だったので泣くほど痛かった。
「よくも! よくも! よくも貴様! 小物の分際で!!」
 怒り狂った拳が腹を何度も殴った。それに飽きたと見える頃、膝も入った。
「ア――――ッ!!」
 それでも叫んでいるのは私ではない。
相手だ。
 ひとしきり暴力の波があり、ごく僅か落ち着いたヤライは、壁に寄りかかって失笑しながら力を抜いている私の外套から、何か白い紙がはみ出しているのに気がついた。
 獣のような早さで引っつかみ、二つ折りになっているそれを開いて中身を見る。私はああ、鼻血出てらと思いながらそれを眺めていた。
「……なるほど、そうか……!」
 立ったままのヤライは再び私を睨みつけた。憎々しげに、しかし飽く迄も上位の笑いを浮かべたけれども、プライドが傷ついているのがはっきりと分かった。
「さすが生まれながらの淫売だ、貴様は……! 他の男に乗り換えたというわけか……!!」
「乗り換えたねえ……」
 左顔面と唇が脹れ始め、思うように音が出なかった。ため息のようにそう漏らして、私は目を閉じる。
 午前三時。店を出る時偶然届けられた少量のつまらない薬草と、走り書きの手紙。
 大したことなど書いていない。大体、マヒトに大したことなど書けるわけがない。彼はただ、体調不良に効くと言われる煎じ薬(商売人に!)にふさわしく、「無理はするな」と寄越しただけだ。




解剖に行く途中でちょっと寄った。
俺たちは大丈夫だから、お前も無理はするな。
マヒト




 それだけだ。バラシンの部屋で、ポケットに入れた手の先にひっかかり、毒薬の瓶より先に出てきた紙に書いてあったのは。
「しかもよりによって坊主と姦通するとは、正真正銘の売女だな!! そうだ、お前はそういう女だ! お前の母親と同じようにな!
 次々男を取り替えては前の男を裏切って嘲笑する。そしてひとたび寝たならそいつのものを何でもうまそうに飲み込みやがる。劣情のために親や師を裏切ってゲタゲタ笑っているような、お前はそういう女なんだ!!」
 ヤライは喚きながら紙を破いた。全ての恨みと苛立ちを込めて破いた。
 子供じみた振る舞いに私は笑う。同時に鼻の奥が刺されたように痛み、こらえる間もなく涙が、目の端に潤んできた。
「まあ、なんだ。劣情はともかくな」
 とうとう来てしまったなあ。この瞬間が。
「あんたが本当に私の親かどうか、決まったわけでもないしな」
「……――な、」
 心臓をつかまれて、いっそぽかんとするヤライ。
「に?」
「…………」
 意地悪く私は間を置く。勝利者というのはひどい真似が出来るものだ……。私はこの男に勝ちたいなどと、一度でも思ったことは無いけれど。
「今、なんと言った……?」
「…………」
 うまくいかなければすぐ暴力を振るう。女と見れば陵辱することしか考えない。卑小で、愚かで、迂闊なこの男は、沈黙に我慢しきれずとうとう聞いた。
「どういう意味だ?! 答えろ、チヒロ!」
「……五年前、コルタに逃げ込んできて母の名を借りて強引にコーノスに面会した」
(これは誕生日の贈り物だよ。)
「コーノスは母だけでなく父ヤライも知っていた。しかも失踪直前に偶然南部の街で会ってもいた」
(大きくなったね。)
「えらく違うよ。工房で知るヤライ、話に聞くヤライと、あなたは、そもそも」
「お前は現実の父より、他人の噂を信じるのか?! 貴様は馬鹿か?!」
「――性格的なことならね、評判のよかった男が蓋を開けてみたら最低野郎だったというのは確かにありそうな話だ」
 事実そう思い込んでいた。だが。
「……だが、なくなっていたはずの小指と薬指が見事に復活している理由はどうやっても説明できないと思わないか」
 五年前、コーノスははっきり言ったのだ。ヤライはかなり危ない綱渡りをしていたようだった。二年前に会った時に比べたらひどく痩せて陰鬱な顔をしていて、怪我もあった。その上左手の第四、第五指が落とされていたな、と。
 その時の私の顔を、世界中に見せてやりたい。今思い出しても、滑稽すぎて死にそうだ。
 そしてネタをとっくに知っていたにもかかわらず、再び斯様に翻弄されるがまま翻弄された私自身も、人間と名乗るのが恥ずかしいくらいだ!!
 ――教えてくれ。あなたは一体誰なんだ。
私の父。私の男。私の支配者。私の
いもしない家族。
「……あなたの茶番劇に、付き合ってやってもよかったよ」
 痛めつけられた部分が、脈動と一緒にがんがんと痛む。額に手を当ててこらえながら、私は棒立ちになった「ヤライ」の足に言った。
「あなたがこんなことをした下らない動機を知るくらいなら私の『ヤライ』でいてもらったほうがいい。その為に人を殺すくらい訳も無いと思ったし、王都じゃ実際、そうしただろう」
(無理はするな。)
「……だがもう、限界だ。これ以上はできない」
 告げる。
「出て行ってくれ」
 「ヤライ」の体が、二、三度迷ったかと思うと、私の体の脇を通り、工房を去って行った。私は額を押さえたまま目を閉じて、気配だけでそれを見送る。
 終わった。
 言葉にならない思いが胸元にわだかまっていた。
 結局私は私自身では何も決められなかった。そんな無力な苦味が神経に行き渡った頃、上で大きな物音がした。




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