コントラコスモス -22-
ContraCosmos




 階段を上りきらないうちに、短絡的な男の頭に兆したのは復讐の念だった。余計な情報を与え、自分からチヒロを奪ったあのコーノスを苦しめ、害してやる。
 それが道理に沿った思考であるかどうかなど、もとより彼の頓着せぬところだ。彼の道理は気分によってどうにでも変形する。ついてこられぬ連中は馬鹿なのだ。
 地階に出たとき、男の足は止まった。扉が開いていて、店の中に男が二人いる。彼を見てすぐに、
「あ、お父上……」
と声を掛けてきたのは、あの、何も知らないと見くびっていたうすのろ坊主だ。
 その側に印象の薄い若い男が一人。おそらくリップと呼ばれていた常連だろう。
「あの、こんな朝早くにすみません。ちょっと気になって寄ってみたんですけど、ミノスは大丈夫ですか? ドアは開いているし、リップが何か物音がしたと言っていて……」
 その間抜けな善人面に自分の計画を台無しにされたかと思うと、恐ろしいほど腹が立った。無言のままカウンターを抜けると、店の中頃まで歩んで来ていたマヒトの顔を、下からいきなり殴りつけた。
「っ!!」
 準備も出来ないでそれを受けたマヒトが、とと、と後退する。さすがに心外という表情で顎を押さえると、背中のリップに問う。
「俺なんかしたかな」
 リップはいきり立った男を眺めた後、顎を引きながら言った。
「聞いてみたら?」
「貴様らのおかげであいつは役立たずに成り果てた!!」
 聞かれるより先に「ヤライ」は怒鳴る。だが、勿論マヒトには通じない。
「? ? ?」
 どこまでも真面目に悩む彼にリップは、
「何かミノスが親父さんの命令に逆らうようなことでもしたんじゃないの」
解説してやった。
「毒を作らなかったとか、殺さなかったとか、さ」
「え?!」
「毒物師の親は毒物師だぜ、マヒト。それにこの人言ってただろ、『仕事で来た』んだって」
「……そ、そんな駄目ですよ! 親であるあなたが実の娘にそんな非道なことをさせるなんて!! あってはならないことです!」
 立ち塞がってまくし立てるマヒトは正義感だけで頭がいっぱいで、男の顔がどうしようもない苛立ちと劣等感で古い鉄のように歪んでいくのに気がつかなかった。
「それに、それを拒否したのは彼女の良心です! 私たちは何もしていない。ミノスは賢いし、あれで優しい性根の持ち主でもあるんです。少なくとも他人の命を救うことの出来る器なんです!
 たとえあなたのお仕事があろうとも、ここで彼女を巻き込むのは……」
 その時、階段の奥で気配が動き、マヒトの注意が反れた。
 視線の先にミノスが立っている。だが彼女の顔は半分が脹れ、髪の毛も乱れ、口元は血で汚れ、体はよろめいていた。
 それは正常な親子関係を完全に裏切る眺めだった。鈍いマヒトはようやく真実の入り口に触れ、愕然とした。
「ミノス……?! ど、どうしたんだそれは。まさか……」
 うろたえた視線が彼女と、その「父親」との間を行き来した。
 父と名乗ったその男は、曰く言いがたい表情をしている。一番手軽にたとえるなら教会建築の雨どいに使用されている魔獣のそれ。
 裁きの火に追いつかれ、尚敗者であることを受け入れられず、天の威光を恨んでいる。自棄になって、粗暴で不屈で、後のことなど何も考えない。
 暗く燃える鋭い目が手近なマヒトを捕らえたかと思うと、笑いながら最短距離にある冒涜へと走った。
「アンタは、何も知らないんだよ、お坊様……」
 ああ、と諦めを込めてミノスが息を吐いた。この男はまっとうではない。誰もがそれに気づきながら、誰一人止める術を持たない中で、それは曝された。
「こいつは俺と寝たんだ」
「…………」
「一度だけじゃない。もう何年間も、数え切れないほど何度もだ。こいつは淫売なんだよ!」
 空気と一緒に、マヒトの表情が固まった。だが、続いて吐かれる狂犬の咆哮に、刻々と表情が険しくなる。
「確かに俺はこいつの父親じゃない! 父親じゃない人間とどれだけ寝ようがそりゃあ罪じゃあないな!
 だがな、こいつは途中まで本気で俺のことを父親だと信じてたんだぜ! ついこの間までな! それなのに腰を振りまくって具合いい声でヨガってやがった。
 ならな、こいつはよしんば本当の親が目の前に現れても、同じようにしただろうさ! 犬畜生も同然だぜ!!」
「――は」
 微かに開いたマヒトの唇から、声が漏れた。
「恥を知りなさい……!」
「こいつは根っからの淫乱で卑怯者の人殺しだ! お前は知らないだけなんだよ、哀れなお坊さん!! あんたもこいつに騙されたくちだろ?! 間抜けはみんなこいつに操られるんだ!」
「黙りなさい!」
「お生憎だったな! この売女に童貞を取られたか?! 純情間抜けのクソ坊主!」
「黙れ!!」
 前に出ようとした彼の襟首をリップの手がつかんだかと思うと、ものも言わず思い切り引いた。体勢を崩して引きずられたマヒトの、半秒前まで体があったところを鈍い線が払う。
「――ッ」
 短刀の一撃を外し、舌打ちした男がリップを睨んだ。彼は目を細めてそれに応える。
「どけッ!!」
 男は床を蹴ると、バランスが戻りきらないマヒトの巨体を突き飛ばして出口へ走った。リップはそれに逆らわず、男がドアから外へ出ると同時に法服を離して後を追う。野犬のような影が二つ、北風じみて通りを滑って行った。
 取り残されたマヒトは、唖然とした表情のまま確かめるように彼らの出て行った戸口を見、それから振り子のように自然と反対側へ視線を戻したが、階段の入り口は空っぽで、立っていたミノスの姿はいつの間にか消えていた。


-つづく-







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