コントラコスモス -23-
ContraCosmos




 午前四時にやっと寝付いたコーノスは五時半に叩き起こされた。一介の官僚である彼の家には家族と五指で少し足りぬ程度の使用人しかいない。夫人に家に賊が侵入したようですと言われれば、どうにも自分が起きていくしかなかった。
 年かさの一人にすぐ近衛隊を呼びにやらせたが、間に合うだろうか。上着を引っ掛け、騒ぎの起こっている三階の広間へ向かうと、既に男達が出てきていて各々エモノを持ち、それでいて不安げに一所に固まっていた。
 だが、入り込んだ賊の相手をしているのはそういう非戦闘員ではない。南は吹き抜け、北東は壁、そして階段に通じる西を人々に塞がれた長方形の床の上。そのちょうど対角線上で、腰を落として敵と対峙しているのは、バルトロメオ・リフェンスタインである。
 コーノスは眉をひそめた。この男が正義感云々でこんな気の利いた行動を起こすとは思えない。とすると、これはミノスか王都がらみの客だ。
 リップの背中越しに奥の一匹に目を凝らす。黒い髪。血の流れる痩せた顔立ちに暗く鋭い眼差し。
「?!」
 記憶にぶち当たるもののあったコーノスは、半ば信じられぬままにその名を呼んだ。
「カイウス?!」
 賊は、ちらりとコーノスのほうを見て、忌々しげに舌打ちした。
 音が聞こえたその瞬間、コーノスの頭の中で降り積もった疑問に串が通る。何故リップがここにいるのか、誰がミノスに彼女の業を教えたのか、何故彼女は任務を捨てて王都から出奔したのか――
 遡る問いの答えをその名で噛み締めるが、堪えきれぬ分が、いっそどこかで野垂れ死んでいればよかったのにという呻きになって口からこぼれた。
「貴様……、まだ生きていたのか!」
 背後にコーノスが来たことが分かったらしい。リップは目前の敵から注意を反らさぬまま怒鳴った。
「コーノスの旦那、騒いでごめんね! 途中で何とかするつもりだったんだけど、さすがにしぶとくてさ。ところでこいつミノスにフラれた腹いせでこんなとこまで来てるんだけど、誰だか知ってる?」
「ミノスの両親と知り合いだった小汚い毒屋だ。とっくにどこかで死んだものと思ってたんだが」
「ミノスの父親ってことは有り得る? 可能性とかも込みで」
 彼の確認に即座、冷淡な否定が返される。
「冗談だろう。サラシャがそんな小物を相手にするわけがない。もっともそちら様はひどくご執心で、いつまでもいつまでも犬みたいに彼女の周りをうろついておいでだったがな」
「そうなんだ。その辺がいまいち曖昧だったから」
 リップは顎を引き、前髪の中に目を沈めた。
「じゃあ殺しちゃってもいいね?」
 するとコーノスは呆れたような声を出した。
「君な、市民権の意味を理解しているのか? 法の御利益に預かりたいなら、法外な行為は慎むのが原則だぞ」
「あいつあんたの末娘の部屋を襲おうとしてたよ」
「殺っておしまい」
「言うことがコロコロ変わるねえ」
「それが親というもんだ」
「いかさま!」
 リップは踏み込んだ。右手に握られているのは細身のナイフだ。そのように見えたことのなかった体が別物のように俊敏に動く。使用人たちがおお、と声を漏らして感嘆した。
 だが。
「見くびるな、若造が!」
 カイウスはぎょっとするほど巧みに弾き返し、彼の勢いを殺ぎ落とすと、あっという間に討ち合いの主導権をもぎ取った。
 男の動きに流麗さはまるでない。だが暗い修羅場を切り抜けてきた生き汚さは伊達ではなく、教育されたきりのリップの刃を押し、騙し、あるときは滅多矢鱈と殴りまくった。
 見ていて顔が嫌悪に歪むような闘い方だった。カイウスの汚さがそのまま四方に飛び散って、空気を染めていくような気すらする。
「――っと」
 リップは受け切れなくなり、自分から詰めた間合いを再び開いた。だがカイウスはそれを許さず一撃、二撃と追う。無理に受けたリップの手からナイフが飛んだ。
 続く一払いを跳んで逃げる。コーノス達のすぐ側に着地すると、コーノスの右に立っていた若い従僕が持っていた身長ほどの槍を、不可思議なほど静かに取った。
 よく壁にかけてあるような飾り物の武器だ。だがリップは赤い柄を握り、一振り唸らして相手を牽制しつつ、自分の体に従えた。
 ぴたりと位置が決まった瞬間、辺りの音が死に絶え、急に雰囲気が変わったように思われた。
 暗く笑っていたカイウスの動きに、本能的な警戒が宿る。この男のナイフ術は新米同然だった。同じレベルの槍ならいかにこちらが短刀でも怖くもなんともないが――。
 その時、見ている瞳孔を突かれるかと思う速さで、突如相手が踏み込んできた。咄嗟に切っ先を払う。しかし払いながら圧され、カイウスは初めて後退した。崩れたところをさらに突かれる。経験のない速さだった。
「何だ、貴様……?!」
 立場は一瞬にして逆転し、カイウスは二撃を防ぐ火花のうちに、これ以上の戦闘は不可能だとはっきり思い知った。
 そろそろ近衛兵も来るだろう。コーノスの吠え面を拝めないのは悔しいが、命を落としては元も子もない。
 カイウスは相手の押しを利用して下がり始めた。ぐんぐん追い立てられて吹き抜けの欄干に近づく。使用人たちは歓声を上げるが、それが彼の手だった。
「えっ……」
 誰かがそう漏らした瞬間。
 カイウスは地を蹴り、欄干の上に立った。
 三階だぞ。唖然とする空気の中で、意図に気づいたリップが歯を剥いて槍を振るった。
「逃がすかァ!!」
 赤い棒が扇を描く。その上をカイウスの体が回転する。一閃を避けるとそれは見事にバランスを制御したまま、落下していった。
「クソッたれが!!」
 リップの怒号にコーノスが目を丸くする。彼は欄干に足をかけると、落ちていく彼に向かって力いっぱい槍を投げつけた。しかしもはや八つ当たりの範疇だ。
 キャーと遠くで悲鳴が聞こえる。欄干に張り付いた人々は、槍よりも二呼吸早く着地したカイウスが、一瞬衝撃を受け止めた後、犬でなければ虫のように跳び、玄関から逃げていくのをあ、あ、と見送った。
「逃がすな! 追え!」
 今更ばたばたし始めた使用人達が去り、場にはあぐらをかいて座り込んだリップと、呆れ顔のコーノスが隣に残る。
「呆れたね。我々より若いとは言え、三階だぞ?」
「内務部は在籍自体が生き残りの結果だからなあ。ナイフも予想以上だった。甘く見たよ。内務の犬なんて初めてだから力量が測れなくて」
「うん。まあ神のご加護で近衛兵が捕まえるかもしれん」
 冗談でしかない気休めにリップはがくんと頭を垂れる。
 その時、突き当たりの部屋の扉が開き、林檎くらいの年の女の子が顔を出した。リップの言っていた末娘だ。不穏な気配を察し、中から施錠して騒ぎが収まるのを待っていたらしい。
「もう大丈夫だ。だが念のために朝まで母様の部屋にいなさい」
 はい。と小さな声で返事すると、床に座り込んだリップの前を恥ずかしそうに寝巻きで走っていった。
「――それにしても、どういう女だったの?」
「ああ?」
 並んで見送る二つの顔のうち、コーノスのそれが振り返る。
「いや、ミノスの母親。あの男の入れ込み様、尋常じゃないよ。普通その娘にまで何かしようとするか?」
 すると彼は驚いたように眉を上げた。
「どうした、リップ君。君の発言とも思えんな。死んだ女に狂う人間はいないよ。しかもカイウスは彼女に指一本触らせてもらってない。
 確かに最初はサラシャへの執着で動いていたかもしれんが、あれが今も斯様に狂ってるのは別のよく似た、あいつには手に余る女に、浅はかにもうっかり触れたからだ。
 本人が気がついているかどうかは、知らないがな」
 間があった。リップは足の付け根に肘を突き、両手を中空で組み合わせる。
「そうかもしれないね」
 コーノスは彼の髪の毛と、少しのぞく鼻っ柱を眺めながら思った。この男は計算の速い男だ。何を見透かされても仕方がない。
 自分とカイウスが程度の差こそあれ、同じ穴のムジナだということだって、自分に分かる以上他人に分かるななどと言えないではないか。
 五年前、突然聖庁に押しかけてきた一人の少女。身分の保証も約束もない。サラシャの娘でなければ会わなかっただろう。偽者なら見て分かると思った。
 本物だった。
一目見て分かった。それが手に入ると聞いて、胸がわななかなかったと言い切れるか。
 そこで交差した縁によって彼女を引きずりまた自分も間違いなく引きずられている。果たしてカイウスより冷静だろうか。
 唯一つ幸いなのは、チヒロ(ミノス)が、他人を引きずりまわして喜ぶような女でないことだ。
 その証拠に、彼女は自分自身を恐れている。カイウスの狂乱ぶりを目にし、自分が持つ他人を影響する力に惧れをなし、早々に部屋の扉を閉じた。ちょうど彼の末娘がドアに鍵をかけて、息を潜めて隠れていたように。
 だが、それでもいつか誰かが中に入るだろう。
コーノスは、それがとても意地悪なことだと恨むけれど、自分自身から逃げ切れる人間などいないと思うのだ。逃げれば逃げるだけ地球を一周して逆に本質へ近づいてしまうものだろう。
「……だから、他人の人生を変えることなど出来ないと、あの子が思い込んでいるうちが華だな」
「どういう意味?」
「期が熟せば右手に毒薬を繰り、畳まれた千のコケットを開花させ、膨大な知識でもって他人をねじ伏せる恐ろしい女になるということさ」
「……彼女の母親のように?」
「+αだ。サラシャはまだ毒のことなど知らなかった。だから、ミノスが今まで他人に馴染めず秘密を抱えて孤立がちに暮らしてきたことは、周りにとって幸運だった」
 リップが静かに目を閉じる。
「……お父さん、それは戦略としてのお話でしょうね」
「そうやって怖い声を出す君も毒されているんだぞ」
 コーノスは前を向いたまま、一語一語念を押すように言った。
「カイウスと同じように私も君も、君の恋人も、林檎のお嬢さんも、マヒト君も残らず、本来なら娑婆にあるべきでない『チヒロ』という名の生きた毒を、吸い込みながら生きているんだ」






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