コントラコスモス -29-
ContraCosmos


 二日後。約一ヶ月半の不在を経て、医学会に参加した医学生たちが正門を通って帰ってきた。
 出発のときに比べて人数と資材が三倍くらいに増えている。あまつさえ学生たちの旅には不釣合いな四頭立ての馬車すら、大道に現れた。
 もっとも迎える街も以前のように無関心げではない。道りには人垣が出来、一重とはいえ聖庁の門前まで途切れることなく続いていた。
 ボブリンスキ公女アンジェリナは、前教皇アギレシウスU世の「姪」である。この手の庶子は親である教皇が歿した後も、当人の野心や他人の思惑によってしばしば政治の舞台に留め置かれる。
 アンジェリナの母は貴族であった。庶子が貴族称号を継承すること自体、原則的には有り得ないことだが、こういう場合は教皇からの特赦が出されるのが通例である。
 公女は若い女性ということもあり、それほど表舞台に出てくる方ではない。だが古都クレバナにサロンを持ち、様々な分野からこれという人材を集めて保護するパトローネとしての活動はよく知られていた。
 人々は沿道に立ち、やんちゃな才気走った若公女とはさあどんな人間かと興味深げに馬車の窓を見守っていた。別にお祭りではないので馬車も野次馬に構ったりはしない。街中を走る普通の速度で丸い車輪が回っていた。
「……いい街ですね。穏やかだし、込み入っていないし。カステルヴィッツとは随分違う」
 朽ちて棄てられた古い城壁の上に小風が渡る。草の生えた石の上に立ち、大道の様子を俯瞰していると、隣でボレアが小さく言った。
 少年は、若いので熱血漢でおっちょこちょいで上がり症だった。仲間内では引っ込み思案な程なのに、側に他人がいると必要以上に気負って大きな声が出てしまう。
 だから、こうやって人気の無い場所にいるのは互いに気持ちが楽だった。それに気がついてからリップは、店に留まることなくあちこち彼を連れ回していた。
「愛着、湧いてるでしょうね。もう三年も住んでるんだから」
「…………」
 彼は腕組みしたまま答えなかった。風が襟足を流していく。
「……でもバルト先輩。カステルヴィッツを忘れたわけじゃないでしょう。あそこが正真正銘のあなたの故郷だ。あなたが生まれた家も、活躍していた兵舎も、全ての記憶があの街のものなのに」
「…………」
 軍人の目が行列の中にマヒトを見つける。同僚の僧侶と並んで、馬を引いて歩いていく。
 随分髪の毛が伸びたな、と思った。刈り込みの記憶しかないから、落差がよく目立つ。
「みんな待ってるんですよ、先輩の帰還を。ゴトー先輩も、トリノ教官も、第二隊の仲間たちもみんな……。あの後、先輩がいなくなってどれほど心配したか……。どれほど皆が探したか……。予想がつかないわけではないでしょう?」
「…………」
「……家族じゃないですか……。隊の仲間たちは、第二の……。そう仰っていたのは、当のあなたなのに、どうして未だに逃げるんです?」
 砂がじゃり、と鳴ってボレアは彼に踏み込み、外套のすそに手を掛けた。
「帰りましょう、先輩……。
 あの事件を知っていればあなたに同情しない人間はいないし、憶えていない隊員、知識すらない若い隊員たちも大勢います。勿論隊の人間以外は何も知りません。
 もうあれは終わったことです。だからこんなところでいつ迄も虚しい生活をしていないで、第二の家族の中に、戻ってきてください」
 リップは長い間、大聖堂の中に吸い込まれていく行列を眺めたまま、返事をしなかった。だがボレアは布を握り締めたまま、全神経を凝らして反応を待った。
 目の前の男が第二南部隊次長を務めたバルトロメオ・リフェンスタインなら、今の、自分の心からの言葉を無視することなど有り得ない。もし無視するのなら、もう彼は違う人間になったということだ。
「ボレア」
 往来が静まり人々も散った頃、声がようやく言った。
「憶えてるんだよ」
 どん、とボレアは何かに打たれて揺らめいた。一歩足を引いて辛うじて留まった時、それが自分の心音であると分かった。
 ボレアからはリップの頬から後ろしか見えなかった。だがそれすら凝視していられず、彼は俯いた。
「あれは……、先輩のせいではなかった。あなたは、巻き込まれただけじゃないですか」
 其れに対する応えは無かった。しかし強いればリップは繰り返したろう。
 それでも、俺は憶えていると。
「お前も憶えてるじゃないか」
 力の抜けた手からするりと外套を取り戻し、リップは歩き出した。
 ボレアは目でそれを追った。他の部位は停止していた。彼が一歩ごとに煉瓦を蹴るようにして城壁を降りていくのを、無言のまま看過した。




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