コントラコスモス -30-
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風邪を引いた。昨晩変な時刻にごちゃごちゃ動いたせいだ。ああ喉が痛いなと思いながら寝て起きたら、すっかり本式の風邪に化けていた。 まずい薬を飲み、客が少ないのをいいことに椅子に座ってだらだら過ごす。午後になってリップが現れた。 ヒヨコはどっかで巻いたらしい。気楽に一人で入ってきていつもの席に腰掛ける。 「さっき花屋が来てたぞ」 「ああ朝、街で会ったからね」 「その時、他人の振りをするようにすごまれたと言ってた」 リップは眠たい猫みたいに目を閉じると、乾いた両の掌でごしごしと顔を洗った。それからだらしなく笑いながら面白そうに私の方を見、 「気づいてる?」 と言う。私は腕を組み、窓の外へ視線をやった。 ――確かに昨日くらいから、うるさい蝿が二、三匹、周囲をちらちら飛び回っている気配があった。やり口がどうも素人くさいので放置しておいたのだが、リップは気に入らなかったのだろう。街中を引きずりまわして確かめたわけだ。 「大したことなかったろ?」 「うん。揺さぶってやったらものすごく慌ててた。どうもどっかの素人さんが俺らのこと知りたがってるらしいね」 「慌てなくてもそのうち見えてくるだろうよ……。少年は?」 「置いてきた。邪魔だから」 「そうやって期限切れになったら帰すつもりか? 私の知ったことじゃないが、そんなんじゃまた来るぞ」 「…………」 リップは返事をしなかった。噴出す湯気の中で、茶器のこすれあう音だけがしばらく響く。 「ああいう未来のある子はさ」 作っているのが茶ではなく、珈琲だということを見せると、彼はにっこり笑った。 「俺なんかと関わってちゃよくないよ」 「……」 「早く帰って、忘れたがいい」 ――あの後花屋は、一時間ばかり話して帰っていった。 ボレアがリップを王都に連れ戻しに来たのだと知ると、彼女は感心したように頬杖をついた。一瞥したのみの青年の顔を思い起こしているのだろう。 「……その子が言うように、昔はものすごくまともな男だったのかしら」 「さあまあ、……ケホッ」 私は拳で咳を押さえる。 「少なくともあの坊ちゃんがウソを言う理由はないわけだけど」 「……だとしたら、きっかけが必要よね」 「え?」 「そういう人間が、今みたいに自堕落な男に落ちるには。私には想像つかないけど……。何があったんだと思う?」 そして大きくて青い目で私を見ていった。 店の中に舶来の豆の香りが流れて行く。何だか久々に、落ち着いた午後になったと思った。 最近はどうにも雑事が多くて忘れかけていたが、林檎が来る前には、我々はこんなふうに、何時間も差し向かいで過ごしていた。勿論毎日のことではないし、午後三時になればマヒトが現れるのだが、それまでは、私とリップは店の中で二人きり、それでいて互いの話をするでもなく、適当に、ぼんやりと時間を無駄にしたものだ。 共に脛に傷持つ身である。触れて痛そうな場所へは踏み込まないのがお約束になっていた。だから聞いたことは無い。昔何があり、何をなくし、どこへ行きたいのか。 従来の距離感を保つなら傍観すべきだ。 『だがお前は知りたくないのか?』 そう聞いてきたのはマヒトである。あの完徹坊主は、昨日の真夜中押しかけてきて、別の茶器を持ち上げながらそう聞いた。 『俺はちょっと知りたいような気もするが』 ――どいつもこいつも、けしかけるのが好きだな。 私はこっそりため息を逃すと、自分用に確保した珈琲を飲み下し、カップを水の中に放り込んだ。 ちょうどその時、店の扉が開いた。時計を見ると午後三時だ。ああ、という表情がリップにもある。 しかし、顔を向けた我々の前に現れたのは神父服ではなく――、随分高級な布地のドレスを着こなした若い娘と、忍耐が凝固したような印象の付き人の男、二人だった。 「まあ随分地味で怪しい店ね……! 聖庁からも遠いし、わざわざこんないかがわしい場所へ通っていたの?」 開口一番の台詞には、自分の感覚の確かさを信じて疑わない世間知らずの、付き合いにくさが露出していた。私は胸に満ちた嫌な予感を、腕を組んで堪忍する。 年の頃は林檎と同じくらい。金粉の掛かった髪にこの衣裳、この口調。そして側にいる付き人の服従一方の顔つき。 特権階級である。となれば嫌でも予想はついた。リップもそうなのだろう。勝気な眉が動いて、 「私は、ボブリンスキ公女アンジェリナです!」 と、聞こえたときには二人してげんなりと肩を落としてしまった。 「当店に何のご用でしょうか?」 公女は答えずに店の中を歩き回った。棚の中身をいちいち確認し、リップが飲んでいるものを構わず覗き込み、私は自分の店が観光名所になったような気がする。 「まあ一応薬草屋としての体裁くらいは整っているのね……。それにしてもどこにでもある程度じゃない……」 なにやらぶつぶつ言いながらもといた場所まで戻ってくると、今度は私の顔を遠慮なく眺めた。 「人違いでなくて?」 「いえ。この方です」 初老の侍従は抑揚の無い声で答える。 「そう。ふうん。まあいいわ。……あなたが、ここの主人のミノスね?」 「そうですが」 「聖庁のマヒト神父を知ってるわね?」 「客です」 「よろしい。私はね、公女の権限で彼にしかるべき地位と保護とを与えてあげたいと思っているのです」 「……」 一八くらいの小娘にこういう物言いをされる不愉快は、当人になってみないとちょっとわからないだろう。 「あなたは彼がずっとこの街にいて、神学の下僕としての医学に携わる一介の神父として一生を終えるべきだと思う?」 「……は? いや……」 「それより学問都市クレバナで彼にふさわしい待遇を受け、学問に打ち込む生活をすべきだとは思わない?」 「や、だか……」 「私は心からそう思うわ。あまりに勿体無いもの。だから彼を聖庁からクレバナ大教会に移籍してあげたいと思っているのよ。ねえ? そうすべきでしょう?」 「…………」 意見を聞かないなら最初から尋ねるな。瞼を閉じながら私は思う。側ではリップが口を開けて少女を眺めていた。 「それなのに」 と、アンジェリナの調子が突然変わる。 「マヒトと来たら、この街には仲間がいるから離れがたい。もう少し考えたい、などと言うのよ」 「……」 私とリップは顔を見合わせた。ようやく小公女が乗り込んできた理由が分かってきたような気がした。 「そんなに拘るから一体どんなすごい人達かと思えば……。全く、マヒトは馬鹿ね!」 首を回すようにして嘆息する。 「生きるってことがどういうことか分かっていないんだわ!」 「姫様。そろそろ」 押し黙った我々と、仁王立ちになっている少女の間に入るようにして侍従が言った。 「そうね。ではあなた達、マヒトが来たら是非クレバナに行くようにと薦めるのよ。それが彼にとって最良の選択なのだから」 「……」 扉が大仰に開き、不似合いな者達が退場する。黙って見送ればよかったのに、私はつい、その流れに泥をかけた。 「『好きなようにしろ』と言いましたよ」 ぴた、と公女の背中が止まり、侍従が振り向いた。 「だから奴のやりたいようにするでしょ」 「でたらめを言わないで。彼が戻ったのは昨日よ。昨日は遅くまで晩餐だったし、いつマヒトに会ったと言うの?」 「午前二時ごろでしたかね」 私は相手の顔も見ないで言った。 「ここに来ましたから」 「な、なんですって?!」 アンジェリナは侍従を突きのけて戻ってきた。頬が真っ赤になっている。やはり林檎くらいの年だ。この手の仕掛けにはものすごく簡単に引っかかる。 「マヒト神父が昨日の深夜ここに来たというの?!」 「夜明けまでいました」 目の端でリップが十字を切るのが見えた。 「な、なんてふしだらな女なの!! あんたなんかとは絶対に縁を切らせるわ! 覚えておきなさい!!」 言い捨てて、突如入ってきた公女様は出て行った。何か通りの方がざわざわしている。当然といえば当然か。こんな細い路地に高級な馬車が止まって貴族様が歩いてきたとあっては、みんなびっくり仰天だろう。 「いやー、すごいねえ」 残された店の中、リップが本気で感心したような声を出した。 「さぞやんごとない育ち方してきたんだろうな。 ――ていうか、アレかしら? 俺らのこと嗅ぎまわってたの」 かもしれない。 彼女が直々命令したのではなくとも、あの苦労人ぽい侍従が先んじて調査したのかもしれない。それなら手口の素人くささも肯ける。 彼らはここに資材も人材も持っていない。聖庁の内務はコーノスが押さえているし、臨時に金で雇うしかないだろう。 「しかしマヒトもすごい子に目をつけられちゃったこと」 「全くだ」 「ところで、昨日ホントに来たの?」 「来たよ。真夜中に来て茶を飲んで明け方に帰ったよ」 「ふーん」 空になったカップの底を名残惜しそうに眺めた後、彼は乾いた口調で聞いた。 「いいの?」 「仕様が無いさ」 私は笑う。 「他人の人生を変える力なんか、私にない」 「そう?」 リップはそれきり黙ると、ひさしぶりに楽器に手を伸ばした。指を動かしながらも意識はどこか虚ろであり、その細めた瞼の隙間から、何か遠いものでも見ているかのようだった。 |