コントラコスモス -32-
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ボブリンスキ公女アンジェリナはその時部屋にいて、数人の取り巻きとカードで遊んでいた。小ぶりで可憐な細工の施されたテーブルの側には侍従が立ち、お茶の世話をしている。 と、廊下から荒々しい靴音が一つ、ものすごい勢いで部屋に向かってくるのに気がつき、侍従は顔を上げた。ドアが開いたときにはアンジェリナだけがそちらを一瞥したが、他の三人の娘達は黙ったまま人形のようにカードに触れ続ける。 入ってきたのは、聖庁の医学僧マヒトだった。今回の旅の最優良の収穫物であり、真面目で信頼に足る男だ。 だが、侍従は彼の顔を見るなり何かよくないことが起きたのだとすぐに察知した。眉間には深い縦皺が刻まれ、表情は硬く、口は盛大に曲がっている。 「マヒト神父、どうなさいました?」 公女に突進しようとする彼の前に身体をスライドさせた時、神父の後ろにもう一人、見覚えのある男がいるのに気がついた。あれは、街中の薬草屋を訪問したときに偶然居合わせた男だ。 「公女にお話があります。お人払いをお願いします」 衝突寸前でようやく足を止めた学僧は言う。感情を殺して何とか理性を保っている声だ。 「……」 侍従は左を引いて主人の方を顧みた。公女は手札から半分ほど注意をこちらに向けて、 「構わないわ。この人たちは私のお友達です。どうしたというの?」 大儀そうに顎を反らした。 マヒトは侍従の空けた場所へ二歩ほど歩むと、 「では、申し上げますが」 と仁王立ちのまま言った。後ろの男はとぼけた顔で窓の外を眺めていた。 「今までのようにお食事などにご招待頂きましても、もうご希望に添うことは出来ません。また、クレバナに参ることも出来なくなりましたので、移籍の件はお断りさせて頂きます」 アンジェリナの両目がやっとくるりと回ってマヒトを見た。彼は身じろぎ一つせず終わりを告げる。 「以上です」 彼女はしばらくの間背の高い坊主を冷めたような目で眺めていた。だが、口元からこぼれた声は震えており、彼が若い公女の水晶のようなプライドを傷つけたことが知れた。 「……後悔するわよ」 マヒトはため息を吐き、遠慮なく辟易を表現する。ロゴスを抱いて生まれてきて、そんな台詞しか言えないのか。 「私を甘く見ないでね? あなたは一生ここで下働き決定だわ」 「そうですか」 「それでもいいの?」 「仕方がありません」 アンジェリナは椅子を動かし、マヒトと対面する。その目の端には涙が滲んでいた。 学僧は一抹の憐れみさえ抱いて唇を歪めた。この少女は知らないのだ。他人は使役し、服従させ、貪るものだと思っている。 テーブルを囲む三人の娘。皆、レースに彩られきれいな格好はしているけれど、今は下を向いて言葉も持たずに座っているだけだ。 その生気の無い輪の中にある公女には、マヒトという男の図抜けた朴訥さは新鮮だった。そう考えるとマヒトには自分がまるで、料理か何かにでもなったかのように思われる。 「――馬鹿ね。本当に馬鹿ね、マヒト。どうして分からないの? こんな街に一体何の未練があるというのよ」 「仲間がおります。あなたが危害を加えようとなさった大切な仲間達が」 「姫様!」 侍従が珍しく気色ばんだ声を上げた。 「あれほどお止め下さるよう申し上げましたのに……!」 「うるさいわね! 怪我はさせないようにと命じたわよ! ……マヒト、本気で言ってるの? あんなつまらない人間に拘って、一生を棒に振るなんて、愚かもいいところだわ!」 「前にも申し上げました。私には大事な仲間達です。彼女ら無くして今の私は……」 「そんな馬鹿げた台詞を聞かせるのはよして頂戴!!」 突如彼女は、強い苛立ちを表して怒鳴りつけた。 それから膝の上の両手を握り締め、断固とした声で一気に、こう言ったのだ。 「マヒト、あなたは生きるっていうことがどういうことか本当に全然分かってないわ! 強くなければ生きている意味なんかないのよ?! その為に人は人を服のように着込むのだわ。いくら美化してもそれだけのことよ! 愛だの恋だの友情だの、詩人達は歌ってお金を稼ぐけれど、みんな結局は他人を利用しているだけじゃない。寂しいから徒党を組み、いらなくなったら見捨てる。それしきのことじゃない!! 私は子供の頃からお父様にそう言われて育った。私は生きるごとにそれがとてもよく分かった! もしあなたに法王猊下の仰ることが理解できないのなら、あなたは最下級の愚か者ってことだわ! 生きている価値なんかないのよ!!」 聖庁の部屋に沈黙が満ちた。 肩で息をする公女の後ろに、石になったかのような三人の娘。背もたれの後ろで痛ましげに俯く初老の侍従。窓の側で相変わらず外を見ている男の横顔。そして公女の前に立つ学僧マヒトは、体の前で両手を重ねる。 「……間違ってるって言うの?!」 間が崩れそうになった頃、公女は手ごたえを求めてまた言った。マヒトは一度顎を引き、 「どうでしょう」 と受けた。落ち着いた声だった。 「……確かに人間はそれぞれの局面で関係を衣服のように着替えながら進んで行くのかもしれません。 ……でも関係のないことなんです。彼女らは、私の皮膚です、アンジェリナ様。……皮膚を着替えることの出来る人はいません」 マヒトは言葉を切ると、椅子の上で呆然とし、固まっているアンジェリナに対して、頭を下げた。 「本当にお世話になりました。失礼致します」 窓際に立っていた男はゆっくりと動いて、テーブルに背を向けて歩いてくるマヒトを出迎えた。そして二人は言葉を交わすこともなく一緒に、扉を開いて出て行った。 しばらく廊下を行くと、リップがマヒトに誰か来るぞ、と注意した。足を止めると、追いかけてきたのは侍従だ。 「誠に申し訳ありませんでした。ご友人にまでご迷惑を……」 ブラネスタイドに居た時から、マヒトは彼に根拠の無い信用を抱いていた。この忠実な男が、問答無用な環境で育った公女を何とか世界にとりなそうと苦慮しているのが傍目にもよく分かったのだ。出来ることなら、その力になりたいとも思った。 「いえ、こちらこそ申し訳ありません。何かとご親切にして頂いたのに、このような結果になってしまって」 「それはみな、姫様のなさったことが原因です。お気になさらないで下さい。 ……姫様は、ああいう育ちの方ですので、良識のある方々は皆さん結局離れておしまいになります。結果小ざかしく下劣な輩ばかりが集まってきてしまって……。ますます、姫様にはよくないことに」 「そうですか。……移籍や出資の話は別にしても、あの方とよい関係が築ければそれでいいと思っていたんですが」 「……もし、よろしければ神父、これからも姫様とご交流をお持ち願えないでしょうか。お手紙か何かでも、本当に構いませんので……。 私は今回は期待していたのです。やっと姫様の地位を利用しようと考えない方が来て下さると思いまして。あの方には神父のようなご友人が本当に必要なのです」 「……では、アンジェリナ様が薬草屋に出向き、私の友人に直接謝っていただけましたら、それも考えましょう」 「…………」 「…………」 「…………」 廊下に男三人の視線が行き交う。 「ひょっとして、マヒト神父……」 侍従は真面目な中にも引きつったような笑みを浮かべる。 「本気で怒ってらっしゃいますね」 リップが面白そうに見守る中で、マヒトは太い首をちょっと傾げ、 「とても」 と言った。 |