コントラコスモス -32-
ContraCosmos


 恐慌を来たす家主夫婦に適当な事情をあげつらい、とにかく窓ガラスだけ大急ぎで頼み、二日がかりで後片付けしてようやく何とかあばら家と勘違いされないで済む状態になった。
 大量にごみが出たもので、店の中は前よりかえってすっきりしている。やはり逃走がバレたのか、林檎もあれ以来やってこないし(片付けが嫌なんじゃという説もある)、花屋に頼ってばかりもおられず、端的に言って、てんてこまいだった。
 こんな状態では治るものも治らない。残った咳に悩まされながら毎日、買出しやら原料収集やら。その間にボレアが帰国の挨拶にやって来た。
 赤毛の美青年は何か吹っ切れたような表情で、前よりも朗らかだったが、ずっと気になっていたらしいことを最後にこっそり聞いてきた。
「あの花屋さんとバルト先輩って、その……もしかして恋人関係なんでしょうかね」
 私はちょいちょいと指を振って耳を近づけさせると、一度しか言わないからよく聞けよ。と前置きした。
「腹の中に奴の子供がいる」
 それはそれでショックだったらしい。ボレアは泣きながら国に帰っていった。
 五日後、散髪に行って変に若返ったリップがお茶を飲んでいた時、また帰国挨拶をしに来た者がいた。
 唇を薬缶の口のようにひん曲げて、背中を侍従に押されるようにして店に現れたのは、あの愉快な公女様だ。
「悪かったわよ。でも損害額は口座に入れたわ、充分でしょ?」
「……」
 林檎なら殴るところだが、まあ、背中で侍従がいかにも精一杯な面をしているから、我慢した。
「クレバナに帰るの?」
 相手を貴族とも思わない不敬な口調でリップが聞いたが、公女もかなりイレギュラーな心地なのだろう。
「そうよ、忙しいんだから」
薬缶の口を彼に向けた。
「結婚の準備で大変なの!」
「――」
 貴族の子供の婚姻が早いのは承知だが、やはり目の前に現物がいると驚いてしまう。彼女は彼女で、どうしてそんなことをわざわざ言ってしまったのかと混乱気味だ。
 彼女の処世に関する素敵な理論は、マヒトから私も聞いた。マヒトはあれは彼女のせいじゃないと呟いていた。
 確かに、教皇アギレシウスU世の持論に、誰が異議を唱えられるだろう。我々庶民がなんと言おうと、彼女は現実に取引的な人間関係の中で生きることをずっと要求されてきた。
 だからといって壊れたものは元に戻らないが、『彼女のせいではない』。それもまた、もっともだ。
「お幸せに」
 腕を組んで、私は言った。公女はよほど悔しいらしく、
「マヒトのことがなければ、あんたなんか牢に入れてしまうのに!」
と、どこまでも元気である。
「相手が嫌だったら逃げておいでよ」
 カウンタからリップがひらひら掌を振った。
「匿ってあげるからね」
「冗談でしょ?! 誰がこんな汚い店」
 最後は危ないものでも片付けるような迅速さで、侍従が彼女を外へ連れ出した。
 やっぱり一発くらい殴ってやればよかったと悪態をつくと、リップは楽しそうに喉の奥でくつくつと笑っていた。
 あの日彼が振り回した横棒は、また天井に取り付けられて平和にハーブをぶら下げている。






 リップが席を立って、店の中には誰も居なくなった。陽の光が落ちるすっきりした店内で、消失物リストとにらめっこして過ごしているうちに、静かなもので午後三時の鐘の音が聞こえた。と、ほとんど同時、災難を免れた店の扉がノックもなしに開く。
 公女も帰りボレアも帰った。
 こんな時間ぴったりに来る奴は、一人である。


-了-




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