コントラコスモス -33-
ContraCosmos


 朝方止んだ昨夜の小雨は、まだ葉を持たない木々の幹を一回り濃く変えていた。下草も水を含み、太陽は白い薄雲の中に隠れがちで、昼を過ぎても辺りは冷えたままだ。
 私は夜中出歩くのと同じくらい完全武装していたが、それでもじき両手の爪がすっかり紫色になってしまった。外套のポケットに入れて暖めればそれほどにはならないのだが、片手に花を持っているものだから両方同時に暖められるということが無い。
 右手が寒くなれば右手を入れ、左手が寒くなれば持ち替えて左手を入れる。実に頭の悪い感じで歩いている私の隣で、
「いつも思うんだが、木の枝ぶりって、内臓に張り巡らされた毛細血管と似てるよなあ」
と、大層デリカシーなことを呟いているのはマヒトである。
 午後三時過ぎ、我々は街を抜けて西区の墓地へ繋がる上り坂を歩いていた。マヒトがちょくちょく「人体解剖の集い」を催し、幾度か後ろめたい私とも遭遇したことのあるあの墓地である。
 当然このメンツとこの時刻で裏稼業は有り得ない。今日は聖庁のコーノスに書面で命令されて、何故か奴の代わりに墓参りに行くのである。


『忙しいから代わりに頼む』


 ……そりゃあまあ、コーノスは忙しいだろう。しかし未だにどうして私とマヒトがそれをせねばならないのかまるで納得できない。
 しかしまあ風邪も片付いたし、わざわざ聖庁へ苦情を述べに行くのも面倒だし、逆らわないでおくことにした。マヒトは「気の毒じゃないか。俺でいいなら幾らでも代わるさ」と、どこまでも屈託のない性根である。
 私たちは店番にリップを残して二十分ほど前に店を出た。そして秋に散らばったコナラやブナの実が枯葉の中で朽ちる道を、こうして連れ立って歩いているわけだ。
「リップも来ればよかったのにな」
 マヒトが言う通り、一応誘いはしたのだが、奴はばたばたと手を振って動こうとしなかった。
『遠慮しとくよ。留守番してる』
 空気を読めずにさらに誘うマヒトに、奴がこう囁いたのを私は聞いていた。
『馬に蹴られて死にたくないし』
「気を使ってもらうのは何というか……、何というか何というかなんだが」
 思い出したのか、マヒトは目の前で薬品をひっくり返した時のような、冴えない表情をしている。この手の冷やかし自体に慣れていないから、喉元に溜まるそのぐちゃぐちゃした感情を持て余しているらしい。
 私は辛うじて無関心げな態度を保っていたが、奴がいたって真剣な顔で、
「それにしても、どうして分かったんだろう?」
と抜かすに至って、膝が崩れた。
 ……そりゃ、私はこれに限っては当事者だ。だから厳密なことは言えない。が、それにしてもマヒトの日々の行動はどう見てもそんなに分かりにくいものとは――
「どうした?」
 点目で老婆のように歩く私を見て、坊主は帽子の下の目を丸くした。
「どうもしない。ちょっと久しぶりなんで脳天に来ただけだ」
「?」
 それで馬はどこにいるのだろうか。






 その墓は、文官の神経質で的確な説明のおかげですぐ見つかった。貧しい墓の並ぶ一角、大きな銀杏が薄ぼんやりと影を落としている寂しい場所だった。
「成る程今日が命日だ。……だが知らない名前だな」
 マヒトは苔から覗いている部分から、故人の手がかりを読んで呟く。
「どういう係累なんだろうな。わざわざ代理を頼んででも命日の墓参りをしたいってことは、家族か何かかと思ったが」
「……そういう感じじゃなさそうだな」
「ちょっと失敬」
 屈み込んで、石の上に降り積もった塵や苔を大きな手で払う。墓は小さくはあるが一応大理石で出来ているので劣化は無かった。マヒトの掌を汚してすぐに、五行ほどの碑文が現われる。
 そしてそれを読んだとき、私は何故コーノスが自分たちに墓参りなどさせたのか、その意図が見えたように思った。


「元司祭テオドロ・ヤナシュここに眠る。厚情たる僧侶 家に反すと指弾され咎無きまま位を剥奪さる。安んじ給え天は定めし正しき者の園也。神の目人の目とは異なりて必ずや汝が魂を認めん。審判の朝は家の潰えて汝が勝利の日なり」



 過激な碑文を彫ったものだ。この元司祭が死んだ時、コーノスは三十前か。
 今のような力はまだ無く、何も出来なかったのだろう。
 前教皇(つまりあの姫君の父親だが)は、後年ひどく反動化し、諸侯に対し破門を多発した上、各地で宗教裁判を実施した。その尻馬に乗って私恨を晴らした輩は多く、犠牲となった者も数多い。
 命は大事にしろ。
そういうことだろう。
 花屋に選んでもらった白い花を手向け、我々はもと来た道をまた戻った。何となく互いに沈黙したまま、墓場の門を過ぎる。
 二羽のセキレイが頭上遥かを横切った頃、マヒトが口を開いた。
「――最近同僚の神父達からな」
 自由になった両手を今度こそポケットに突っ込んだまま、私は彼のほうを見る。
「散々お前は馬鹿だとか、あまりに思慮が無いと言われるんだ。まあ、原因はクレバナに移籍しなかった件なんだが」
「ああ」
 ご無理ごもっともだ。我々だって(黙ってはいるが)マヒトの選択にマイナスの面があることは分かる。同業者なら尚更苛立ちもするだろう。
 周りから馬鹿にされるのは慣れているはずのマヒトだが、今回はたくましい肩を上下さして、珍しく大きなため息を吐いた。
「普段なら俺も気にしないんだがな。今回はもう会う人間会う人間がまるでいじめみたいに同じことを言うものだから……」
 黒い瞳でじっと足元を見つめる。四つの靴音はゆっくりと、規則正しく続いた。
「彼らは、もっと俺が賢くなるべきだと言うんだ。……目先の感情に囚われないで、自分自身が最も得をする選択をすべきだったんだと。
 俺が、ここで信仰を続けることだって悪い人生じゃないと言うと、もうお話にならないって顔をする。
 ……まあ確かに、わからんでもない。とにかくここじゃ医学の地位は低いからな。それどころか下手をすると懲罰ものだ。医学会で聞いたところでは、そんな旧弊さは今時ここだけだそうだ。
 それに、俺たちのようなそこらの田舎町出身の坊主には、出世の望みはほとんど無い。たとえ医学僧といえども、もしクレバナで学者としての地位を築けば、それを手土産にエリートとして聖庁へ戻ることだって出来たはずだと言うわけだ。
 結局、関係から切り離されて辛いだの辛くないだのと、そんな瑣末なことで事を判断すべきじゃなかった。後のことをもっと真面目に考えるべきだったというのが、彼等の言いたいことらしい」
 私は黙って聞いていた。茶々を入れるには、少々心苦しい立場だ。何だかマヒトと一緒に自分まで叱られているような気分だった。
「加えてな、とても下らないことだと我ながら思うんだが、公女がいた頃には何かと俺に声を掛けて来たのに、彼女が帰国した途端、スーっと離れていった人間や、変に態度が冷淡になった同僚もいるんだ。腹が立つということはないが……」
 のっぽの医学僧は、子供みたいに目を上に寄せる。
「困惑、という感じかなあ。何が何だか分からないで、びっくりするよ。そんなに俺は馬鹿なのか。
 いや、そりゃ馬鹿だよ。でもそんなに、全人類の常識から外れたような間抜けなのか? 皆から一気に見くびられて当然というほどの間違いをやらかしたと?
 ……そうでもないだろう。確かに学者として皆から尊敬されたら気分がいいかもしれないよな。公開解剖がうまくいってみんなから拍手をもらった時にはジーンとするほど嬉しかったから。
 だが、それもきっと周りが興味を持ち、俺を受け容れようとしてくれる医学生だったからだよ。アンジェリナも俺のことを褒めては呉れたけど、俺はその時ほど嬉しくなかった。
 考えなかったわけじゃない。……いくら強力なパトローネが付いても、信頼できる人間たちに認められないと意味ないじゃないか。
 有名になっても仲間たちから信頼されないんじゃどうにもならない。
 俺は俺が知っている人たちの役に立ちたいし、その人たちから助けてもらう。彼らと一緒に仕事をしながら共に行く。ただそうやって生きていたいだけなんだ。それは、そんなに珍しいことなのかなあ。俺にはそれが一番納得できる道なんだが」
 彼は口を閉じると、詰襟に顎を当てた。なだらかに下り始めた砂利道を行く。濡れた砂や石が一歩ごとに流れていくのを眺めながら、私は置いて来た花束のことを思った。
 街が見える。
女の乳房のような聖都コルタ・ヌォーヴォ。中心にある、街で最も高い建物は大聖堂である。
 しかし我々は誰もいない街に住んでいるのではない。建築家は人のいない街を思考する。だが現実の順序は逆だったはずだ。
「そんな連中の言うことは気にするな」
 私は丘の上から遠くを眺めながら呟くように言った。マヒトが顔を上げたのが分かる。
「言ったろ。お前はこの世界の財産だ」
 私は白い花のことばかり考えていた。
「言いたい奴には言わせておけ。私もリップもお前の考えてることはよく分かってるよ」
 落ち着いて、晴れきらぬ悩みの中にもほんの少しだけ嬉しそうに坂を下り始めた彼に、一歩遅れた。
 もう手は辛くなかったが、代わりにコーノスの示唆が投げ入れた砂利石が血の中に住み、泡を出してうごめきながらその温度を下げていた。




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