コントラコスモス -33-
ContraCosmos



 聖庁へ戻ると、同僚の一人が慌ててやってきて、
「お戻りになったアウグスト司教がお前を呼んでるぞ」
と囁いた。
 司教はマヒトがコルタにやって来た際、叙任式を担当した年上の聖職者で、その後一年間彼の「兄(後見役のこと)」でもあった。
 多忙な彼が自分を呼び出すというのは滅多にないことだ。さすがのマヒトも事の重さを察し、自室に戻ることなく、すぐ司教のもとへ向かった。
「久しぶりだね、マヒト。掛けたまえ」
 四十路の司教は机を挟んで置かれた椅子に彼を座らせると、二分ほど書類を触って、切りのいいところで「さて」と、羽ペンを壺に投げ入れた。
「クーファンで話を聞いたときには仰天したよ。折角のクレバナ招聘を、君は惜しげもなく蹴ったそうだね」
「……」
 やはりその話か。マヒトは目を細くして上体を軽く折る。一礼したのである。
 司教はそれを見ると腕を組んだ。彼は他の連中のように頭ごなしにマヒトを馬鹿にしたことは一度も無い。今も飽く迄も保護者として、静かな言葉で先を続けた。
「マヒト。勿論君の人生を選択する権利は全面的に君にある。クレバナに行こうが行くまいが、神に仕える君の価値に変化は無い。
 だが、私は少々妙な噂も一緒に耳にした。君が普段から市街のちっぽけな薬草屋に通いつめ、あまり素性の明らかならぬ者たちと付き合っている。そして、今回の招聘拒否には、その人間達がかなり深く関わっているのだと。
 ……嘘偽りなく答えたまえ、マヒト。それは本当のことかね」
 名前を呼ばれて顔を上げる。マヒトは普段と変わらぬまっすぐな瞳で言った。
「はい」
「……では、その薬草屋の女主人と常連客の一人が、その政府に少なからず関与していた北ヴァンタス人だということを、君は知っているのか?」
「……彼らがカステルヴィッツ出身だということは知っています。一時、国に仕えていたことも何となく知っています。
 ……しかし司教、それは過去のことであり、彼らは決して怪しい人間達ではありません。誠実で、私のことを信頼してくれる仲間です。
 彼らは確かに公明正大な人達とは違うかもしれません。しかしその性質は優しく、人として好ましいものです。
 彼らには他人を貶めて優越感を得ようとか、見栄を張ろうとかいう浅はかなところがありません。私の身軽でないところも最後には赦してくれますし、様々な局面で実際、私を助けてくれま……」
「そんなことは聞いていない」
 司教の声はやはり静かだった。だがその矛先は苛立って鋭く、一瞬でマヒトの多弁を駆逐する。
「私が聞いているのは、他のことだよ、マヒト。
 キサイアスU世の挑戦的な行為を受けて現在、教会全体が北ヴァンタスに対して態度を硬化させている。外務院のお偉方は殊に、キサイアスに対して破門権を適用すべきだと教皇猊下に迫るほど彼の国を憎んでいる。そんな事態である今この時に、君の行動は派手すぎたとは思わないか。
 まず君は学者としての立身のチャンスを見送った。そして只でさえ倫委から目をつけられているというのに、今回の件で親ヴァンタス派として特別警戒される立場に自ら立った!
 公女とはそれほど関係性を悪くしなかったようだが、それでもこの先聖庁で君が採りえる道は確実に少なくなった。馬鹿げた連中はこれを餌に君を利用し、苛め抜くだろう。
 君はその全てに耐えねばならない。
 私が聞いているのはそのことだよ、マヒト。この全てを引き換えにして足るような、それはそんなものだったのかと聞いてるんだ!」
 司教は机を殴った。彼は俗人であれば堅実な商売をし堅実な家庭を築いたであろうような賢く、実務的な男だ。それだけにこの青年のあまりに無防備で隙の多い行動を、黙って見ていられなかった。
 実際、馬鹿かと思ったものだ。事の顛末を外出先で聞いたときには。
 夜の部屋にしばし沈黙が流れた。マヒトは顔を伏せることもなく、時折瞬きしながら、司教の言ったことをじっと考えている。
 彼の行動パターンをよく知っている司教は、時間感覚をきっぱり殺して、辛抱強く応えを待っていた。
 やがてマヒトの意識が思考の空から戻って来て、黒い真珠のような目がアウグストを映す。
 そして言った。
「はい、司教。私は彼女を愛しております」




 智恵と自然が衝突し、垂れ下がったのは前者の方だった。司教アウグストはがっくりと脱力し、この手のつけられない弟子の、手のつけられないほど偽らぬ魂に愛想をつかした。
「――私はどんなことがあっても、とにかく自分だけはこれを言わないでいようと思ってきた――」
 前置きして彼はマヒトを指差す。
「君は、あまりに、向いてない」
「はい」
 とうとう担任からも見放されたというのに、この男と来たら笑みさえ浮かべている。
 彼は本心と共にある。その身体は頑健であり、その精神は健全であり、悪意や低俗な幾万の感情はその皮膚に傷一つ付けられない。
 それを知るたびに思うのだ。世の中には嘘をつかねば生きていけぬ人間と、そうではない人間がいる。
 最後の地平で、嘘つきは決して彼のような人間に勝てない。絶対に勝てない。
 だからこそ、自分に余裕の無い人間はマヒトに対して凄まじいまでの憎しみを抱くだろう。聖庁でも、俗界でも。
 その仕組みを思っただけでアウグストには身震いがする。だがその危惧すらもこの男には通じまい。既にその魂魄の潔白は自らの手を軽く凌駕している。
 だから、司教は「兄」としての縁と情から嘆息し、効かぬとは知りながらもこう警告するほか無かった。
「君の行く末は厳しいぞ」
 彼からは馬鹿げていい返事がきた。
「はい!!」


-了-




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