コントラコスモス -37-
ContraCosmos


『連絡をしたら、即座にこの街を出ろ。その脱出を誰にも見られてはならない』
 二日前、聖庁での別れ際、コーノスは言った。私は肯いて彼に別れを言った。
 彼には感謝している。世話になった。最初に陰謀を嗅ぎつけたのも彼だった。
 激昂したイェーガー司教が、ある時リップのことで『この男も北ヴァンタス人ではあるまいな』と言ったそうだ。それはつまり、私と同じように北ヴァンタス人なのかと聞いたわけだ。
 何故司教が私の出自を知っているのか。完全なる越権行為であることを承知で、コーノスは部下達を働かせ、カステルヴィッツ内部を探り始めた。そしてそこに王キサイアスの野望と平行して動くあのヤライ――いや、カイウスの暗躍を認めた。
 しぶとい奴だ。とコーノスが唸るカイウスは、再び内務に食い込んでいた。一旦抜けた男が再度内務に入ろうという時には、手ぶらではいけない。恐らく彼はキサイアスに、逃げた財産、王が正当な所有権を主張できる毒物師が聖都コルタにいることを教えたのだろう。
 そしてキサイアスは私の情報を外務に掴ませて内務と衝突させた。聖庁内部を混乱させ、同時に強硬派を自ら焚き付けて極化させながら、密かに兵を動かしている。
 それが相手の望みそのものであることを知らないまま、或いは知っていて尚――、破門は為された。
 事態は動く。恐らくあと数日のうちに。
 だから私は身を隠すのである。教皇は否定したが、もし王の軍隊がコルタ・ヌォーヴォを包囲すれば、闘う前からまるで勝負は見えている。コーノスが目論むのは初手から最善の負け方に過ぎない。
『お前は決して捕まってはならない。お前という存在が街に無くなれば、王は部下達に当然の権利として略奪と放火、虐殺を許すだろう。
 だが毒物師を殺すときには遺体の確認が原則だ。キサイアスは冷酷だが愚かで粗暴な人間とは違う。お前の死が恐らくはカイウスによってはっきりと確認されるまで、混乱は禁止するだろう。お前を確保して王都に連れ帰る気なら尚更だ。
 だから最後までお前は捕まってはならない。だが街の外へ逃れたと確定されるのも同じ理由で好ましくない。あくまでもお前は、街にいるのか、いないのかも分からない状態にならねばならない。
 だから深夜に門を抜けろ。誰にも見られてはならない。店は片付けず全て置いていけ。お前の身一つで、この街からいなくなれ。それがお前に出来る唯一のことだ』
 繰り返しになるが、私は彼に礼を言って、別れを告げた。五年前、いやもうすぐ六年前になるのか。何らの証明も持たず転がり込んできた私を受け入れてくれて感謝している。まともな生活させてくれて感謝している。
 それに私は彼が多量に注文した薬剤を、救護院へ送っていたことも知っている。『お前は毒にも薬にもなる。使う人間次第のことだ』そう言ってくれたこともある。
 その彼が、私に街を去れと言うのなら従おう。
 確かにそれが私に出来る、たった一つのことだろう。
 夜が明けても知らせは来ないので、私は店を開いた。特段構えることも無く、お芝居のように二日を過ごした。
 けれども空気の匂いも沸ける湯の音も、太陽の白い光も人々の声や足音も、普段とは違って聞こえた。私はもうすぐここを去るんだ。そう思うと、耳まで変わってしまう。
 こういう感慨を、昔一度抱いたことがある。カステルヴィッツを抜ける決意をした日々のことだ。だが今回は出て行きたくないと疼いている部分がある。その度にいいや、その辛さのために出て行くんだと押し返す。
 千度問われても構わない。
私はここを去っていくのだ。
 やがて午後二時を過ぎたころ、全然予期していなかった客が、ひょっこり店に現れた。
 私は呆気にとられて彼女の名を呼ぶ。
「林檎……」






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