コントラコスモス -37-
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もうすぐ三時になろうというのに、マヒトはまだ昼二課のミサの片付けと昼三課の準備をしていた。通常ミサとは言え、広大な大聖堂の中に動いている者の数が少なすぎる。特にやたら身体を動かす作業をしているのは彼一人で――、人界の経験から一体何が起きているのか薄々と感じた勘のよい二人は、思わず胸が悪くなるのを覚えた。 「他の連中はどうしたんだ」 ようやく作業を終えた彼と、聖堂の入り口脇に立って話す。マヒトは乱れた髪の毛を撫で付けながら、 「聖テオドラ昇天祭の準備の方が忙しいらしくてな」 まあちょっと長引いたよ、と答えた。 「お前にはその準備はないのか?」 重ねて問うリップは、沈黙が戻ってきたので思わず顔をしかめた。 「レベルの高い話ね」 と花屋。彼らは一件以来街に現れなくなったマヒトのことが気懸かりで、連れ立って教会に出向いて来たのである。 「大丈夫?」 黒い制服についた灰色の埃をそっと払ってやった後、花屋は大きな目で彼をじっと見つめた。 「……うん。まあ、大丈夫は大丈夫」 マヒトは曖昧に微笑む。だがそこに覇気はないし、以前のような単純明快さも聖堂の影の中へ失せていた。 自分の正しさを見失いかけている。以前の彼なら、同僚達の不正には顔を赤くして怒っていただろう。それが今は、もう仕方の無いことだと言う風に、一歩後ろへ退いているのだ。 厭だと花屋は思った。彼女は似た空気を持った聖職者を何人も目にしてきた。皆何らかの事情があって聖庁内で孤立し、雑に扱われ、しかもそれをいつしか受け入れてしまった者達だ。 そういった人間は諦めたが最後、この聖庁を支配する低俗で愚昧で無益な権勢争いの奴隷となり、死ぬまでこき使われることになる。 厭だ、違う。 この男はそういう男じゃなかったはずだ。同時に私もリップも、ここしばらく本来の自分でいられていない。こんなやりにくさを感じたことはかつて無かった。 いつからか、身体も心もうまく動かないのだ。まるで薄い毒を盛られたかのように。 何がその原因なのだろう。花屋は何度も何度も考えたその問を、脳裏に再び走らせていた。もっとも、とても簡単な答えはある。 ミノスが悪い。そう言ってしまえばそれまでだ。この事態の中心には常に彼女がいる。 だがそんな解を得て落ち着くほど、花屋もリップも易しい頭脳はしていなかった。 「……参ったな。自分でもこんなに引きずるとは思ってなかった。……大したことじゃないと思ってたんだ」 大きな体の神父が手を持ち上げてうろうろと額を触るのを、二人が見守る。 「……だってなあ、別に俺が彼女のことをどれだけ慕おうと、それが報われなければならないと決まったわけじゃないだろう? それくらいのことが分かる分別はあるつもりだった。 大体俺は、こんな役立たずの田舎者だ。その上馬鹿で鈍くさい。ミノスに無視されたって当然だよ。今だってそう思ってる……。ただ……、あれが効いたかな……」 彼女は、お前なんか好きじゃないとは言わなかった。 『悪いな』 (それは昼でも夜でも、百回でも二百回でも繰り返し耳朶に蘇る。) 『ヤライを愛してるんだ』 そうか。彼女はあの男を愛してるのか。そうか。 そうか。 ……そうだったのか。 納得しようと肯くたびに間接から力が抜けていった。むしろマヒトを痛めつけているのはそちらだった。 「……私それ、どうにも納得いかないの」 花屋の胸の前の手が、ショールに皺を寄せた。 「そんな人間いるかしら……」 ヤライと名乗ったあの男は、何も知らない少女を篭絡し、深みに引きずり込んで苛み続けたのではなかったのか。よりによってそんな人間を愛するだなんて――しかも目の前の男を拒むほどいやにはっきりと――、あるのだろうか。 マヒトは自信がなさそうだった。彼には不可触な領域の話だ。 「……よく分からない。だが男女の仲には、何と言うか……情といったものが生まれると聞いたよ。暴力を振るう夫を愛し続ける妻を見たこともある……。ままそういうことも……、あるんじゃないのか」 逆に問われて、花屋は返答に詰まった。リップも床を見たまま微動だにしない。 マヒトが分からないと言ったことは、二人にはそれ以上に分からないことなのだった。関係はどのようにでも変化する。場所にも時刻にも気分にも性格にも偶然にも左右されるそれは、知れば知るほど分岐する可能性が増え、樹木のように広がって、後はもう、自分自身にしか分からぬことになるのだ。 そこを問うても意味は無いのだと花屋は悟った。しかし気分の悪さの原因はそれではない。たとえミノスがあの卑怯な男に理屈ではない愛着を抱いているのだとしても、どうしてこの坊主の心を突っぱねることになる。 花屋はミノスが彼を嫌っているとは、どうしても考えられなかった。 「……私……」 長い長い躊躇の果てに、とうとう花屋は言った。これは、言わないでおいた方がいいかもしれない。自分は感情から正しくないことを考えているかもしれないとずっと抑えてきたことだった。 「ミノスさん……、嘘を言ったんじゃないかと……」 二人の男の目が、彼女を見た。聖堂の沈黙の中で三人の意識が波立ち、しまいに、 「――馬鹿な」 堪えきれずマヒトがうめいた。 「やめてくれ。あなたらしくもない」 疑いはマヒトの不得手、不浄とするところだ。しかもそれが心を捧げた相手ならば一層である。 花屋は彼を汚したことを感じて怖気づいた。しかし、一生マヒトが自らの美しさの中へ留まっているなら、一生彼にミノスの考えることは分からない。 それでいいのか。 「そうじゃないの、マヒトさん、私が言いたいのは――」 踏み込みすぎている。踏み込みすぎている。 重々分かっていながら花屋は尚足を取られた。例えば情とは、こういうものだ。 「ミノスさんは、いつだって人の為に自分を偽る方の人間なのよ。大天秤でマヒトさんとは真逆の極にいる。 マヒトさんにとっては、誠実でいることが人のためでしょう。でもミノスさんにとっては、不実であることが人のためであることがきっとあるのよ。 何か事情があるんじゃないかと思うの。だって……」 ……二つ目の関は越えられなかった。だが何がしかは伝わったようだ。マヒトは未だ色濃い当惑を示しながら、それでもようやく核心の泉へもろとも引きずり込まれていた。 「何か動きがあるのは確かだ」 ずっと黙り込んでいたリップが、温もった石壁から背を取り戻す。 「あのコーノスの旦那も一枚噛んでる。噛んでるからには聖庁と無関係ではないだろう。 疎外されてるのはお前だけじゃない、マヒト。俺もだ。一度はスカウトまでしたくせに、今は手伝いどころか近寄らせてもくれん。 取りあえずミノスに会いに行かないか? 俺はいい加減、客席にいるのに飽きたぜ」 「…………」 マヒトは決めかねているようだった。つぎ込まれた知識に、感情処理がおっつかないのだ。 「お店に行ったらね、マヒトさん……」 下へ落ちそうになった彼の視線を、花屋が横からすくい上げる。 「どこかに白い花がないか探すといいかもしれない。随分前に、……去年の年末に、マヒトさんがあげた花よ。 勿論とっくに枯れてるから無いかもしれない。無かったら私を馬鹿だと思って言ったことは忘れて。 でももし残っていたら……。頭を真っ白にして、もう一度私の言葉を考えて」 |