コントラコスモス -37-
ContraCosmos |
私は呆気にとられて彼女の名を呼ぶ。 「林檎……」 えらく久しぶりだった。しかも乱入してきたのでないのは。私は一瞬意識の片隅で、これは神様とやらが最後に彼女の顔を見る機会を誂えてくれたのかもしれぬと埒も無いことを考えていた。 「こんにちは。ちょっとお話にきました」 と、籠を置く今日の林檎は落ち着いていた。というより、ここしばらくの登場が唐突過ぎたのだ。これが普通だ。以前を思い出せば。 ただそれにしても大人びて見える。服装のせいなのかもしれないし、また背でも伸びたのかもしれない。一番最初に「死ねない」と飛び入ってきた娘と同じ一人だとは、何かの冗談のようだ。思春期の娘と言うのは、いろんな意味で化け物である……。 だが家族のことについて尋ねると、林檎はぐしゃっと笑った。 「進歩なしでーす。追いかけてくるかもしれないんで、掛け金だけ掛けといていいですかあ?」 と、相変わらずの様子である。一瞬、彼女がどこに住んでいて本名は何なのか聞こうかとも思ったが、やめておいた。 どうせ私は一両日中にはいなくなる。今更追及しても徒に彼女の気分を害するだけだろう。 「まあ、座ったらどうだ? 今日は客扱いにするよ。あと、年末までの給金を――」 言いかけたところに、ドアの隙間から紙が投げ込まれ床を滑った。 全神経が肉の中で緊張する。 コーノスからだ。間違いない。 前にカウンタがあるもので、止める間もなくそれを林檎が拾い上げる。私は泡を食った。 「渡してくれ。待ってた急ぎの文だ」 「あ、はい……。読みましょうか?」 とんでもない! 「いや、渡してくれ。私的なものだ」 「ふうん」 林檎はようやく近寄ってきて私にそれを預けた。それから、「お手洗いをお借りします」と地下へ降りて行った。 好都合だった。その隙に私は手紙を開く。予想通りの文面があった。カステルヴィッツから軍勢が動き、現在コルタ目指して北上中。動きは速い。間違いなく今夜中に街を抜けるように。 「…………」 釜戸を開き、くすぶる石炭の中に紙を放り込んだ。 とうとう最後だ。 身一つで逃げるとは言え、幾つかどうしても持って出たいものものある。それらはあらかじめまとめてあるが……、今の私は信用ならない。漏れはないか確認も必要だ。 分かっていたこととは言え、騒ぎ立つ脈と、どっと沈む心情に寝込みたくなる。立ち上がる力に乗せて無理矢理気を奮い立たせた。 林檎はまだ帰ってこない。カウンタの上に置かれた籠の中身を何とはなしに覗き込むと、中にはまさに林檎が三つ入っていた。地口だ。 市場で買ってでも来たのだろう。もしこれを呉れるのなら、今日の晩飯にさせてもらおう。 林檎が戻ってきた。カウンタに着くと、案の定、籠の中の果物を呉れるという。 「一つ剥きますよ。ナイフかしてくれますか?」 「剥けるのか?」 「いや……、縦に割って種を取るだけ……」 「…………」 それは剥くとは言わないぞ。 馴染みの乱暴さに苦笑する。彼女は渡されたまな板の上に林檎を一つ置いて、その上にナイフを真横に当てると、大層危なっかしく、それでいて一気に体重を掛け、半分にした。 危ない切り方だなあ。と、茶の準備をしながらひやひやしていると、 「あの赤ちゃん元気ですか?」 と少女が言った。 「あー、あの年末の赤ん坊か?」 「そう。六本指の……」 「知らん。元気なんじゃないのか。あれ以来話に出なかったんでな」 「もう一本切り落としたのかしら……」 そういう話をしながら果物を切らないで頂きたい。ますます恐ろしげに見えるじゃないか。 「ところで、あたしは何で『林檎』なんですか?」 「あ?」 唐突な話題の転換に間抜けな声を出した。 「どうしてそんなおざなりな名前つけられたのかと思って……」 『林檎』の両目が私をじっと見る。何故かと言われても、あの時、お前が名乗りたがらなかったからだよ。 「……私、本名はエヴァって言うんです」 「…………」 「今度からそう呼んでください。林檎なんて呼ばないで」 その時私は始めて、彼女の声の底が僅かに震動しているのに気がついた。怒っている。 この少女は怒っている。 普段の私ならこんな小娘の癇癪くらい、強気に出てからかったかもしれない。だが、今日は脱出の予定が足を引っ張った。 どうせいなくなるのだ。今のところは逆らわず、ここで吐き出させて家に帰すのがいい。日永一日家に閉じ込められて、鬱屈するものもあるだろう。他に駆け込む先も無いのかもしれない。 とはいえ雰囲気は彼女に気圧されて密やかになった。カシン! カシン! と、半分の林檎がさらに四等分されていく。 私は薬缶を持ち、急須に湯を注ぎ始めた。 「どうぞ」 そこに林檎の赤い皮が差し出される。 「ちょっと待て」 「どうぞ」 なんなんだ。 私は仕方なく熱い薬缶を置いて、林檎を受け取った。口に放り込み、咀嚼しながら薬缶を再び握る。 林檎――いや、エヴァは、私の様子をしばらく眺めていた。 「おいしいですか?」 「うまいよ」 それは嘘ではなかった。今の季節に収穫はありえないから、先年の林檎だろうが、結構甘い。割と高い品ではないだろうか。 「よかった」 と、彼女は残り半分を切る作業に戻る。淡々と続けるその横に、お茶を出した。 「マヒトさん――、最近いらしてます?」 危うく、手がびくつきそうになった。私はもっと胆を練るべきだ。今は『任務』の最中でないとは言え、情けなさ過ぎる。 「いや……、最近はあまり来ない。きっと忙しいんだろう」 「そうなんですか?」 「リップなんかとはきちんと連絡してるようだがな。私はここ二週間ばかり、顔も見ていないよ」 「――嘘ばっかり」 「え?」 素で驚いた。変な一語だった。 口元を見ていなかったから、今のが本当に彼女の発した音なのかと疑った程だ。 少女は変わらず俯きがちな姿勢で頑ななまでに林檎を切っている。その影に、先ほどからの冷たい怒りが厳しく現れていた。顔を上げないまま、低い声で続ける。 「知らないとでも思ったんでしょ? ……あたしだって、一人ぼっちじゃないんですよ。あなたにどう思われてるのか知らないけど、情報をくれる人だっているんです。 ……馬鹿にしないで下さい。あたしを何だと思ってるんですか? 何で嘘つくんですか? 別になんとも思いません。あなたがあたしのいない間に、マヒトさんとどんな関係になったって」 音を立てて縦に震えが突き抜けると同時、全身が硬直して手の感覚すら遠くなった。 暑くなどない。だのに汗が噴き出してきた。 「いや……。違う……」 「何が違うんですか?」 ――そう。何が違うのか? お前はいつだって隠していた。マヒトがはっきりと自分に歩み寄ってきた瞬間には、少女はまだ側にいたのに、まま寄すに任したではないか。 「…………」 麻痺した私の眼前に、林檎が今ひとつ、差し出される。それを持つ『林檎』の顔は、悲しげに歪んでいた。 ともかくも受け取り、胸の前に持つ。少女は再び顔を伏せて、言った。 「……知ってたでしょ? あたしがマヒトさんのこと好きなんだって」 「…………」 知っていた。分かり易すぎた。どこまで本気かは見えなかったとは言え、十二分に知っていた。 「ひどいなあ。知っててそうしたんだ……。 ……なんであなたなの。花屋さんならまだ分かる。なんであなたなの」 その問には答えられなかった。誰にも答えられない。 『林檎』は言った。 「食べて」 私は食べた。かつて少女と同じ名前の女は蛇に唆されてそいつを食った。 しかし今になって思う。蛇なんかいなくても女はいつか食べたに違いない。この赤くてつややかで甘い果肉を一度見れば人間は、二度と知らぬ振りなど出来ない。 それを原罪と呼ぶのなら、本来糾弾されるべきなのは獣ではなく、そんな果実を創った神ではないのか。 私はあの時、酔っていた。 自分の身に振りかかった奇跡に呆然としていた。 マヒトが私を好いている。私に口づけし、私の味方になろうとしている――そんな馬鹿なことが、起こるわけがない。 私は組み倒され犯され犯され犯された挙句に快楽(けらく)を掻き集めた馬鹿馬鹿しくて下劣で話にもならないような女だ。こんな女を、あんな人間が――手に聖痕が滲み出すような男が――赦すなんてことが、有り得るわけがない。 私はその有り得なさに酔った。そして祈っていた。幸福な夢の中途に祈るように。 お願いだからもう少し続いてくれと。 馬鹿にするな。 その通りだ。 故に私は林檎を食った。 そして次の瞬間吐き出した。 |