コントラコスモス -38-
ContraCosmos


 精魂尽き果てた林檎がひどく長い時間をかけて家に戻ると、彼女を待ち受けていたものは無視だった。以前と同じように、或いは以前よりずっと完全で冷酷なる無視だった。
 言うまでもなく、少女はそれに不平を鳴らした。
さっさと離れに戻っているようにと命ずる父親に、約束が違うと喚いた。
「あたし、司教様に言われたとおりにしたわ! なのにどうしてなの?!」
「馬鹿な女だ。全く吐き気がするほど役立たずだ。お前は失敗した、あの毒屋の女は生きている」
「えっ……? だって……」
 司教は、少女に決して殺せなどとは言わなかった。優しい猫撫で声で彼女の耳に熱い噂を吹き込み、細い指で内面をかき乱し、押し込めてあった暗い悲しみをわざわざ引きずり出して来た。
 そして言ったのはこんなことだ。君は、あの女を殺してもいいんだよ。差し支えないんだよ。あの女は悪の塊で、ちょうど伝染病の元凶のようなもので、いない方が世界のためにもいいのだから。
 それで少女は遂に動いたのだ。公憤に私怨を載せ、或いは公憤で私怨を隠し、司教はそれを知っていたくせに前者のことにしか言及しないで少女の背中を押した。
「あなたのその決意は尊い。みなのために自ら先頭に立って善を行おうとするその心は尊い。たとえどのような結果が出ようとも、私は最後まであなたの味方である」
 と、あの男が。離れにやってきたあの男が! 聖職者が! 司教が!
「司教様は?! 司教様とお話をさせて!!」
 父親は軽蔑でうんざりした様子で掌を振り、少女を追い払った。司教猊下はお前などにもうお会いすることはない。いい加減、自らの無能を思い知ったらどうだ。
 父の使用人たちによって再び誰もいない離れに閉じ込められた林檎は、床の上でようやく自身に何が起きたのか悟った。
 利用されたのだ。
長い間頭に眠っていただけで、実際に味わったことのなかったその一語が、今図抜けた現実味を持って彼女の目の前を暗くした。
 あ、あ、と狂人のように彼女はうめく。利用された。利用された。
 信じられないほどの驚愕だった。
そして、あの司教の掌はきれいなままだが、林檎の掌は、今まで自分のいた場所を自分で破壊し尽くし汚れている。
 ……ミノスは、一生自分を赦すまい(当たり前だ)。
そしてリップは……、花屋は……。
……マヒトは……。



 林檎は自分の顔をつかんだ。
他にやりようがなかった。
 死のうと思った。
だが大人たちは周到で、林檎の持ち物の中から危険そうなものはほとんど運び去られていた。
 それでも依然方法はある。その気になればいくらでも死ぬ方法はある――。
 だが林檎は出来なかった。彼女は燃え尽きて死ぬより他に術のない、絶望した人間ではなかったからだ。そうではなく、内部に巨大な枯渇を抱え、異性を見れば愛されることを夢想する、おいしい水を欲するたった一七の愚かな小娘に過ぎなかった。
 少女は床に座り込み、抱いた望みが何一つ全うされないことにうめきながら、そして実は満たされかけていた一つの器を自ら叩き壊してしまったその事実に慄きながら、いつ迄もいつ迄も瞼を開いて、空に眼球を乾かしていた。





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