コントラコスモス -38-
ContraCosmos




 マヒトが出て行って二時間ほど経った。地下の部屋。
 私は寝台から起き上がる。
 ようやく吐き気のする頭痛が取れていた。屈みこむたびに血管が押されてズキンと脳が痛むけれど、間断のない眩暈や不快感はない。
 目は相変わらず変だった。黒い靄が掛かっているというのではなく、視覚そのものが失われている部分がある。例えば書物の表にあるCLAVDII GALENIという字を読むと、真ん中が欠落して当然のようにCLAVDI LENIと見える。
 痛みはない。不可解だった。喉はそれ以上に変だ。だが動けないことはない。
 私は立ち上がり、部屋を出た。暗い階段を昇り、店の扉をそっと開けたが、辺りには誰もいなかった。しかし扉の前に立ち、取っ手に手をかけた瞬間、
「どこに行くの」
と、静かな声が私の動きを止めた。
 階段のところに、花屋が立っている。ひょっとすると私は耳も変かもしれない。或いは、死ぬほど錯乱しているので馬鹿になっているのかも。
「勝手なことは許さないわよ、ミノスさん。行くのなら、私も一緒に行くわ」
 私は逆らわなかった。花屋と一緒に街へ出た。
 空は明け染めていた。東の果てが薄い水色に変わり、夜は西へ追いやられている。
 それも何だか見え方が変だ。薬の影響か、別の要因か、一時的なものか、もう戻らないのか。
 花屋は私の側にぴったりくっついて私の腕を取っていた。昼間ならさぞ妙な二人に思われたろう。
 街は静まり返っていた。家々の間から聖堂の見事な天蓋が見える。かつてマヒトをげんなりさせたことを思い出した。花屋は黙って歩いている。体の触れ合う場所には恐ろしいほどの熱がある。
 私は夢を見た。
この街で許されぬほど夢を見た。
 そのために私が罰せられるのは仕方がないが、その時に腹の膨らみ始めた花屋の死体やそこから引きずり出される赤ン坊や、再び絶望するリップの姿なんか見たくない。
 だから足掻こうと決めた。最悪彼女を伴ってでも、何とか街の外へ出る手段はないか。
 北門へ向かう。普段なら施錠されているだけのいい加減な門だ。破れ目も幾らでもある。
 花屋は何となく私の目的を察したようだったが、何も言わず、ただ腕を離さぬまま着いて来た。その顔は緊張していた。
「事情が、ある。街を、で、出たい……」
 話してみるとしわがれ声である。まるでポワントスのようだった。花屋が美しい鼻を私のほうへ向ける。
「街を出たいのね?」
「そう」
 北門には、普段にはいないはずの不寝番が立っていた。さすがに警戒くらいはしているらしい。もっとも、その真似事というレベルに過ぎない気楽ぶりだが。
「見られずに、出たい。零れ目を探す」
 咳き込んだ時、膜が潰れた感触があった。舌へ乗って来ると、血の味がした。
 私は以前から知っている城壁の破れ目を探した。最近使っていないので塞がれてしまっているかもしれないが、欠落した視界に苦労しながら、壁沿いに歩く。
 穴はあった。脈が跳ねると同時に頭へ響いた。
 私は苦労してそこへ身体を合わせ、破れ目の両端に手を沿えて、外を見る。
「――――」
 今度は頭痛はなかった。代わりに冷や汗が出た。
 外には人間達がいた。そう多くはないし、武装もしていない。だが北門を押さえるように陣取っていて、誰一人眠ってはいない。
 馬さえも整然とし、不気味なほど静かだ。全体、まるでよく躾られた動物が笛の合図を待っているかのようだった。
「……な、なに……。あれ」
 私の後ろから覗き込んだ花屋がぎょっとして口元に手を当てた。
 恐らくもう数時間のうちに、人々はそれに気づいて同じような反応をするだろう。夜のうち、眠っている間にコルタ・ヌォーヴォが囲まれているのだ。
 ふと、その塊から黒い棒が突き出し、樹木の枝の下に翻る小さな旗を見つけた。眺めるのに苦労したが、何度も目を動かして何とか捕らえる。
 真ん中に子羊の絵図、それを貫く細く女性的な十字架。典型的な巡礼の旗印だ。
 なるほど。
 あれで偽装して聖都までやってきたわけだ。カステルヴィッツからコルタまでの領主の中には信心深く、神のためなら軍隊を動かす用意のある者もいる。無駄な戦闘を避けるために旗を用意し、敢えて丸腰で動いてきたのだ。
 且つ、破門を受けた人間が勝手に聖都のサークルへ入ることは出来ないから、門の前にたまっていても不思議ではない。人数が多いなら分散するのも有りうる事だ。
 それで北門の兵士達は緩みまくっているのだろう。こちらにいるのはただの巡礼の一部だと理解しているのだ。
 だが人影の背後には、隠されるように幌の貼られた荷馬車がある。連中はあの意味を悟っているのだろうか。
「どういうことなの? まさか北ヴァンタスの旅団なの? もう着いたの?」
 破門の顛末は誰でも知っている。且つ北上のニュースも流れてはいたが、騎馬団の移動は予想以上に速かった。
「あ、でも、巡礼の旗が……。聖庁に謝罪に来たの……?」
 不安げな花屋の横顔をしばらく眺めた。
 見納めだと思った。
 そして具合が悪くなった振りをした。花屋は慌てた。
「大丈夫? お店に帰る?」
「……そう、だね。そうだ、な……。こないだの、薬草酒を、飲めば……」
「それなら私の家の方が近いわ。まだたくさんあるから、私の家へ行きましょう」
 優しい手が私の身体を触る。私達は防壁から離れ、明るくなり始めた街を花屋の店まで戻った。
 彼女は一階の扉を開け、大人しい私を椅子に座らせ、二階へ薬を取りに上がった。見えなくなると私はすぐに立って、無施錠の扉からするりと外へ出た。
 そして走り出した。
 喉は引きつり、脈は飛びまくり、視界は変わらず欠落したまま。嫌がらせのように刻々蘇る家々の間を走った。
 とにかく知っている破れ目を全て試してみるべきだと思った。だが同時に、キサイアスという男の残酷さの重要な一部として、抜かりは無いはずだという予想もあった。こんな時に楽観論で可能性を誤魔化しても仕方ない。
 だから花屋とはここでお別れだ。
 初めて出来た女の友達を、我ながらひどいと思う。
 申し訳ない。
 彼女は一生私を赦さなくていい。



<< 目次へ >> 次へ