コントラコスモス -40-
ContraCosmos




 教会の鐘が鳴ったとき、何かひんやりとした冷たい予感のようなものが、背中に寄り添ったのが分かった。
 私は顔を伏せていた。何故なら今蹲っている小路の先にはかなり大きく大聖堂が見えたからだ。そこから逃げよう逃げようとしながら、物音に押されてやむを得ず中央へ近づいていた。
 どう網を抜け南下するかと算段していた時、鐘は鳴った。
 ――合図だった。
一度でも戦場儀礼について学んだことのある人間にならすぐ分かる。この一方的な音の鳴らし方は通告だ。



「人質、確保セリ。惜シクバ要求ニ従ウベシ。」



 誰に向かって放たれた矢か、考えるまでも無かった。
喘ぐ呼吸音が自分の耳に聞こえる。続いて人質の数を示す鐘の音。零れ落ちる髪の毛の中で数えた。
 一。
……一人。たった一人だ。
 それが私の為に捕まっている。じき晒されるだろう。いや、見えないだけでもう晒されているかもしれない。
 ――誰だ。
コーノスか、リップか、花屋か。皆カイウスが知る人間達だ。おめおめと捕まるとは思えないが。
 それともまさか…………。
 次に来るのは、どれだけ待つかという宣言だ。鐘は三度鳴らされて止んだ。……半時間。
 私は頭の中が空っぽだった。故にそれは怒涛のごとく一気に感情を支配した。
 人質の警告は、戦場では無視が鉄則である。考えてはならない。捕虜の犠牲は、戦闘での犠牲に置き換えて看過せよと教官は言った。
 けれど私は考えた。そして見ないわけには行かなかった。何故ならそれは私のためだけに犠牲にされるのだ。兵士が国のために非情になるのとは違う。
 罠と知りつつ顔を上げた。大聖堂の堂々たる天蓋が眼に映る。
 何もなかったので、移動した。同じように明るい方で人々が不安げに動くのを察しながら、それに沿って動いた。
 誰かが「お坊様だ!」と叫んだのが耳に届いた。心臓に針が刺さり、足が速まった。
 そして、遂にそれを捉えた。屋根の中央部。
 小指ほどの大きさで、四人ほどの人間が見えた。うち二人は甲冑だ。
 残り二人。顔までははっきり分からない。
 だが、体が。体が見えた。
 一人はリップと体型が似ている。けれども黒髪で、もっと痩せて武器を持っている。
 一人はそれより一回り大きい。まるで樵のような体躯で、背が高く、僧服に身を包み――
 その瞬間、カイウスが空を撃った。緊張を共有していた全ての体が、鋭い音に竦み上がった。
 銃だ……。
異教のマシュハド帝國から輸入した、今最も威嚇し甲斐のある武器。銃だ――!




「…………う……!」
 私は今度こそ毒にあたった。
堪えきれず上体を折り、直撃を告白した。
 もはや身体は言うことを聞かず、これを取り除かずば一歩もならぬと訴えていた。
『だって、分からないのか。マヒトだぞ。あののっぽの坊主が、殺されようとしているのだぞ。』
 意識が遠のき、暗いところへ入った。
 やはり、私はこれを見てはならなかったのだ。
決して見てはならなかった。
コーノスの示唆は斯くも適当だった。
 私は自らの為に払われる犠牲を、見たくても見られない場所へ退いていなければならなかった。たとえ後からマヒトが死んだと聞かされても、後悔だけが許されるような所へ。
 何故なら頭はまだ働いている。
人の身に赦されぬ葛藤が無意味に回る。
そう、無意味にだ。
 出て行ってはならない。
私が出て行けば街は荒らされる。それは赤子を抱えた花屋や彼女に似た人間が大勢殺されるかも知れないということだ。そんなことはマヒト本人も望むまい。
 だが、出なければカイウスは確実にマヒトを殺す。手に聖痕の浮き出す、泥沙の中の玉石であるあの男を。そしてとうとう私を見抜き、私を赦したたった一人の男を。
 街の命か。マヒトの命か。
そんなことは私に決められない。
 等価値でないものを秤に載せることは出来ない。
 ショーン・ゲイナーは何が楽しかったのだろう。
 私には出来ない。
マヒトが生きて花屋が死に、
花屋が生きてマヒトが死ぬ。
 決められぬ。やめてくれ。
私には決められぬ……!




 愚かな私の顎を、湧き起こった悲鳴が再度上げさせた。カイウスが銃をマヒトの足へ向けたのだ。
 人々が恐怖に目を見開いている中で第二の発砲は起きた。マヒトの体が揺らぎ、被弾した足を堪えきれず右から通路へ崩れ落ちた。




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