コントラコスモス -42-
ContraCosmos


 同日、夜。カステルヴィッツ。
 与えられた部屋の全ての窓には鉄格子が嵌っていた。浴室の窓にも、寝室の窓にも全て。
 扉は一つ。見張りの兵士が二交代制で監視している。必要なものは呼び鈴を鳴らして侍女が運んでくる。今のところ散歩も許可されない。
 まさに鳥かごだった。餌は与えられる。勝手に掃除もされる。眠れるし、湯浴みも出来る。だが自由はない。
 侍女たちは二時間ほど前に引っ込んだ。寝ろということだろうが、私は一人、椅子に座って身を固くしていた。頭の中がストレスに次ぐストレスでガチガチになっている。手足は冷えている。
 そして耳朶には先刻の王の、優しい言葉が幾度も幾度も繰り返し回っていた。
(――冴えないツラだな。と、王は言った。)



 ……いい加減、冴えないツラだな。いずれこうなることは分からんでもなかったろうに……。
 気の毒だが、お前の血縁には契約が刻まれている。お前の六代前のジジイが我が王家と結んだ契約だ。
 その古ぼけた羊皮紙がある限り、お前は毒の知行を受け継ぐ命運にあるし、俺や俺の子供に従わなければならない。
 恨むならお前のその遠い祖先を恨むんだな、さぞ後先考えない男だったんだろうよ。
 大体、それを言うなら俺とお前は同類だ――。そういうふうに考えたことはあったか? 俺は前からずっとそう考えていた。
 俺もお前も、祖先の抱え込んだ屈託を理屈ぬきで押し付けられる……。生まれ落ちた瞬間からだ。拒否の手立ては無い。逃げても誰も信用しない。自分の力を狙って下等な連中ばかりが鼠のごとくに押し寄せる。
 謀略に次ぐ謀略。裏切りに次ぐ裏切り。快楽の情も冷めるほどの怠惰と飽食。
 唯一の解放の手段は……、死だ。冗談じゃない。
 俺はお前の虚無が分かるぞ。お前が何を厭うてこの巨大な地獄の釜を逃げ出そうとしたか。世の中の誰よりも多分、詳細に分かる。
 ……そうだ、分かるだろう? 俺はお前の云わば同志なんだ……。ただ俺は運命を受け入れ、お前は逃げ出した。
 俺の行為の裏に嫉妬があるのも認めよう。お前一人が外界で血の縛りを逃れているのは嫉ましかった。一方の俺は変わらず不毛の庭で相当に苦労しているというのに。
 その気持ちが分からんか? 閉じ込められた檻のこなたから乞食のような目で、自由に遊びまわる子供たちを眺めたことがなかったか? 恐ろしく長い午後に。
 ……なあ、チヒロ。落ち着いて俺の望みを聞いてくれ。俺はお前のような人間をずっと待ち望んできた。
 お前なら俺の血となり肉ともなるだろう。下等な男女の契りなどではなく、同志として、片腕としてこの汚濁の大河を渡っていける。
 俺はお前に何もかも与えよう。金も、地位も、知識も誇りも、やがては自由も、そしてもしお前が望むなら――
(王の吐息が耳にかかった。鳥肌が立った。)
――男も。やろう。
 コルタ・ヌォーヴォから連れてきたあの男が所望なら、お前に呉れてやる。
 俺は教会じゃない。つまらんことは言わん。結婚しようが子をもうけようが好きにするがいい。恐らくあの男はお前を、生涯見限りはしないだろう?
 それに教会は、若い坊主一人の行方にそれほど頓着しないだろう……。
 お前は全てを手に入れられる。ただ、血の契約に従いさえすれば。お前の父さえ届かなかった実りある全き人生を、お前に約束しよう。
 まだ混乱してるようだな。落ち着いてよく考えろ。あの僧侶にはいい医者を着けてある。野蛮でうるさいカイウスも近づけないようにしてある。
 俺をあの男と同類などと考えないでくれ。俺は格段に豊かなものをお前に用意できる。
 答えが決まったら、工房を開かせよう。何日でも忍耐強く待っているから、よく考えることだ……。



 王の熱い右手が、未だに肩を触っているような気がした。私は、拳を握り締めて額に当てた。
 ……恐ろしかった。震えが止まらなかった。
コルタで逃げ回っていた時よりも、騎士達に前をふさがれた時よりも、今の方がずっと恐ろしかった。
 ……大それたことを考えようとしていたのだ。ここへ着いた頃には、どうやって自分の過ちを償おうか、マヒトを逃がそうか、それしか考えていなかった。
 だのに、王の言葉をただ聞いていた時、魂の底から見たこともないような女の右手が、ついと長い爪を伸ばし、私の心臓を触ったのである。
 それが誰の手か、私には分かっていた。母だ。
母サラシャの手なのだった。
 他者を引きずりまわして身体を揺すりながら悦んでいた、愚かで残酷で腐った女。怖気を振るうほど不快なその赤い血がしかし、この身体を確かに循環しているのだということを、今日初めて自覚した。
 私の体の奥底に、母がいる。
それはキサイアスの誘惑に目覚め、汚らしい虫のように卵の殻を食い破り、頭をもたげて私を見た。
 ……止めてくれ。何という卑怯なことを考えるのかこの女は。一度体が眠れば、夢を操って毒々しい光景を見せるのではないか。
 呪われた、狡猾で、禍々しい女が王の誘いに乗ろうとしているのだ。だがそれは紛れも無く私の顔であり、蹴落としても蹴落としても浮かんできた。
 千尋。それではこれが私の本性なのだろうか。
これが――。
 私は怖かった。私自身が怖かった。
気が狂っているのは分かっていた。
ひどく取り乱しているのも。
 誰か私に、もっと正しい話を聞かせてくれ。私は訳がわからなくなっている。理性が吹っ飛びかけている。
 けれども、ここはもはやコルタではなく王都カステルヴィッツであり、仲間達は……、マヒト以外は、一人残らず死んでいたって不思議ではない。
 そう。ならば。
今更、誰に気兼ねをし――――止めろ。
止めろ!
 死ぬべきだ。
私は今までよりも遥かに明瞭にそう思った。
 そうでなければこの愚かな私は、何をしでかすか分からない。最も自分が愛するものを、我が手で滅茶苦茶にして尚、益々生きるかもしれない。




 嫌だ。早く夜明けが来て欲しい。
 夢が開く闇が恐ろしいのだ。
 頼む。頼むから、早く。早く夜明けを。











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