コントラコスモス -44-
ContraCosmos


 半時間前。城の北東、『客間』。
「……?」
 部屋の中で「作業」していた私は、張りめぐらしていた注意に奇妙な乱れを感じて手を止めた。道具を隠し、扉を注視する。
 続いてなにやら揉める声がし、終いには鉄器のぶつかる音。悲鳴まで聞こえた。
 ――もうか? だが、前夜リップが言っていたよりもかなり早い。「作業」はあらかた済んでいたが、何か不測の事態でもあったのだろうか。
 と、鉄の黒い閂ががちゃがちゃ鳴った。手馴れていない手が、苛立ちながら扉を開けている感じだ。
「――」
 そして、部屋に転がるように入ってきた男を見て、私は絶句した。総身血だらけだ。しかも渇ききって変色した上からさらに新しい血を浴び、戦帰りの兵隊のごとき悲惨な有様になっている。
 そして外見以上に殺伐とした内部を示すかのように、表情も荒んでいた。私は勿論恐ろしいと思った。けれど同時に眉をしかめたほど、……寒いとも感じていた。
「チヒロ……! 来い!!」
 男――カイウスは、右手に同じくらい汚らしい短剣を持っていた。先が血に濡れているから、それで見張りの兵士を刺したのだろう。
 私が呆気にとられていると、地団駄を踏んで怒鳴った。
「来いと言ってるんだ!! 何をぐずぐずしている!!」
 声が命令の用を為さないと知ると、彼は踏み込んできた。手を取ろうとするので、振り払う。
「勝手にここを離れても王に追われる。どこに行くというんだ?」
「俺が守ってやる!! とにかく出て来い! 逆らうな! ……そうだ、外であの坊主にも会わせてやる。だから出るんだ!」
 こんな事態だが失笑してしまった。血刀を下げて髪の毛を振り乱した男が、マヒトに会わせてやると言ったところで、誰かが信じるとでも思うのだろうか? それにこれは彼の足を撃った当の本人ではないか。
「……俺を信じろ! 俺と来い! 他に無いだろう! それ以外に!」
 犬は吠えた。王キサイアスに利用され、掘り出した獲物を横取りされ、こんなはずではなかったと犬は吠えた。
 私は、冷え冷えとした思いのまま、心に開いた今ひとつの目で男を見つめた。そして言ったのである。
「……何を言ってる? 前から思っていたがあなたは勘違いしている。
 どうして私があんな鈍くさい僧侶なんかに気を惹かれると思える? 十四、五で叙任式を受けて以来、女に触れもしないような無骨な男に? 冗談じゃない」
「――何?」
 カイウスの細い目が開き、眼球が丸々見えた。押し付けるように私は続ける。
「私の愛するのはもっと垢抜けた颯爽とした人だ。以前あなたを追って討ち逃した。彼は若くてしなやかで、力もある。じき私を助けにきてくれる。だから私にはもうあなたみたいな偽物など必要ない」
「ば」
 カイウスの体の中で、骨が折れたのが分かった。やろうと思えばもっと早くにこういう真似が出来たのだろうか。それとも、今だから出来るのだろうか。
 この手ごたえは悪くない。実際悪くない。母がこれを嗜んだ理由が分かる。
「馬鹿を言うな――。お、まえ――」
 カイウスはもう私に近寄れなかった。言葉が交わせるというただそれだけのことだった。
 それでも笑うのだから立派なものだ。カイウスは歯を剥いて笑った。
「馬鹿を抜かせ……。はったりだ。こんな場所へ助けに来られるはずが無い。内務上がりの俺だけが、こうやって……」
 私は、ポケットから小瓶を取り出し、鈴のように振った。勿論、この部屋に備え付けのものではない。昨夜リップがやってきた時、「必要に応じて使え」と渡してくれた毒薬の瓶である。
 その意味するところはカイウスにも伝わった。そして彼は、リップがこの王都で軍務に着いていたことを知らない。
「――貴様はァッ!!」
 カイウスの手が虚空を切った。平手を私が避けたのである。しかし避けなくとも当たらなかったろう。まるで見当はずれだった。
「貴様は……! 貴様はぁ…………ッ!! 一体、何人男を知れば気が済むんだ……!」
 誤解をそのままに、私は微笑んだ。そして女の声で言った。
「私にだって昼もあれば夜もある。私は自由だ」
 カイウスは私を睨もうとした。だが、目に痛みでもあるのか、まっすぐにはそう出来ないのだ。
 しまいに行き着く場の無い怒りと混乱が、外部へと矛先を切り替えた。
「ふざけやがって、殺してやる……!!」
 カイウスは吐き棄て、私の前から走って逃げた。私は一応追いかけて、
「出来るものならやってごらん! あなたみたいな偽物には到底無理よ!」
と叫んでおいた。
 廊下の角にその影が消えたのを見届けて、私はようやく下を見た。見張りの若い兵士が二人共倒れ、一人はうめいて一人は静かだ。
「…………」
 手間が省けた。思って我ながら悪寒が走るのを覚えた。
 目覚めた私は、全く人でないのだ。コーノスが揺り起こさなかった理由が分かる。
 とまれ私は窓のところへ戻った。そして隠しておいた金やすりを取り出し、鉄格子を痛め擦り切る作業を再開する。
 そこに警鐘が鳴った。






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