コントラコスモス -44-
ContraCosmos


「ミノス!!」
 その名で呼ばれたのは久しぶりだった。私は三面を切った鉄格子を曲げようと奮闘している最中だったが、工具を持ったまま振り向いたところを訳がわからないままにわっしと抱きしめられた。
「うわっ!」
「ちょうどいい、神父様を頼みます。後は私が」
 見知らぬがっしりした男がそう言って、慌てる私の手から鉄バサミを取る。そして、私がよろよろと大男の体重を引き受けている横で、実に手際よく、鉄格子の穴を広げて行った。
「よかった! よかった! 無事で本当によかった……!」
「……分かった。分かったから。一旦離れろ」
「神よ、感謝いたします……!」
 聞いちゃいねえ。
 大荷物が感謝している間に、結局脱出の準備はその見知らぬ男が済ませてしまった。恐ろしく手馴れているから、多分リップの話にあったコーノスの部下なのだろう。
「舟は来ているか?」
 ようやく坊主を押しのけて尋ねる。
「大丈夫です。縄を下ろしたらすぐ出ます。足のお悪い神父様から。ボレア殿は背後を頼みます」
「よし」
 男と二人で縄を取り付ける。下までは、三階分の距離があるはずだ。この大柄を支えながら降りるのはものすごく大変そうだった。
「まあ結び目を恃みに、神父様にもがんばっていただきましょう」
 男はこともなげに言うと、足場になる為にいの一番で、風の鳴る外へするりと窓をくぐった。そこからは縄を持ち、体半分ほどを降りてマヒトを誘った。
「急いでください、神父様」
「分かった」
 とは言っても、体の大きい上に右足がうまく動かない彼のこと、同じように滑らかには行かなかった。
 切り取られた鉄格子の残りに服を引っ掛けたりしながら、ようよう窓の外へと体を抜いた。
 抜いたと思った瞬間、派手に体勢を崩す。
「うおっ!」
「おい!」
 男と私が同時に助けを出し、何とか支えた。マヒトは泳ぎそうになった右手で私の左手に捕まった。
 と、ぬるりとした感触が手の中に生まれた。血だ。マヒトの掌が傷ついているか、そうでなければ……。
「あぶなかった」
 窓の外、私の下で、マヒトが苦笑する。その後ろに男の肩と頭。城壁が見え、更に下には黒い水面と、小さな舟があった。
 彼方には街だ。その上には丸い大きな円と星とがある。今夜は満月だったのである。
 手をそのままに、マヒトの顔を見る。長い捕虜生活で髭がちだし顔も黒ずんでいる。だが、前髪に現われる目はまだ起きぬけの乳児のようで、そこに自分がすこし撓んで映っているのを私は見た。
「よかった」
 その時、あどけないほどの笑みを浮かべてマヒトが言った。
「これでみんな助かるんだな。またコルタで暮らせるんだな。大丈夫、下までがんばるよ。お前もすぐ来るんだろう? みんな揃って帰らないとな」
「……」
 ぎゅ、と。覚えず、私の左手が締まっていた。ああしまったと私は思った。
「……ミノス?」
 こいつは鈍ちん坊主のくせして、こういう時は気づくのだから。
 捕まりそうになった私は表情を消した。つまり、目を閉じたのだ。
「マヒト。お前が見た夢の話を覚えてるか?」
「え?」
 耳元をゴウゴウと風が透けて行った。
「私はあらかじめ失われるべき存在だ。そうだろう?」
「なに?」
 瞼を開く。
「私がいなくなれば、王はまた必ず探しに来る。だからこう考えろ。互いに元いた場所へ還るんだと」
 沈黙があった。
 それはマヒトが、私の回りくどく分かりにくい挨拶を、飲み込むまでの間だった。背後で、リップが追いついてきたのを私は感じた。
「――嫌だ!!」
 大声で、マヒトはその解を拒絶した。
 分かっていたことなのに、その声は私の全身を揺さぶるようだった。歯を食いしばる。
「嫌だ!! 嫌だ!! 一緒でなくては駄目だ!!」
 私は笑った。瞼には涙が盛り上がって彼が二重に見えていたけれど。
「……そんな子どもじみた願いが叶うと思うか。王に対抗するのが私の責務だ。私は残る。お前は行って、自身の為すべきことを為せ」
「駄目だ!! そんな犠牲は赦さない!!」
「ではやってみろ! 私をここから引きずり出してみろ!」
 言われなくてもマヒトはそうしていた。右手に力を込めて、私を窓の内側から外側へ、引っ張り出し受け止めようとした。
 何もない状態なら、もしかすると出来たのかもしれない。だが、血が滑った。お前何をまた赦したんだと思うと悲しいと同時におかしかった。
 マヒトの傷無き掌から滴る贖罪の血が、やがて私の左手を真紅に染めながら、ずる、ずると落ち、そして――――
離れた。
 その瞬間、私は笑っていた。マヒトは思い切り引っ張っていたものがはずれ、反動で今度こそ完全に制御を失した。
「わっ!!」
 男が叫ぶけれど、埒も無い。王からも私からも逃れたマヒトの体は、涙の粒と一緒に下の男を振り超えて、星を映す黒い布の中へ転落して行った。








私の望みはマヒトを自由に。
ただマヒトを自由に。
私はそのために、最善の方法を取る。








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