コントラコスモス -44-
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ばしゃーん! と高い水音が届く。 体を取り戻し、振り向くとリップが渋い顔で私を見ていた。 「大丈夫なのか?」 「まあ死にはしないだろう」 コーノスの有能な部下達は丁度水位の高い満月の日を選んでいるし、奴は舟のすぐ側へ落ちた。助けてもらえるはずだ。 ……何より、あれは本物である。こんなことで死ぬなら、もうとうの昔にくたばっている。 「連れはもう降りているぞ。お前も早く行け」 「はいよ」 この男との話はもうほとんど昨日の晩に済んでいる。後はもう、軽い挨拶だけだ。 リップは身軽に鉄格子の残骸を抜けて綱を得た。頭だけ下から出したような状態で、私を見ると深く深く笑う。 「じゃあな、竜眼」 ひょいと頭が消えた。 誰よりも早く、実はカイウスよりも早く、私のことを知っていたという程の縁だ。彼とはまた地獄で会うだろう……。 「ボレア! 軍事法廷じゃ粘れよ!」 もう随分遠くから、もう一声聞こえた。部屋に残った私と青年は何だかぼんやりした微笑を交し合う。 青年の顔に破けた死相が見えた。 彼の気持ちは分かる。 多分もう、あの人たちとは二度と会えない。どうして自分は彼らを手放してしまったのだろう。 是非も無い。それが彼の望みだった。 けれど、後に残されたこの嘘のない、孤独な気持ちはどうしたらいい? これもまた、真実なのに……。 「一緒に行ってもいいんだぞ」 言うと、彼は寂しそうに笑った。 「……親兄弟がいますから」 遂に騎士達が部屋へ達した。両手を挙げるボレア青年を双の脇から挟み込み、腕を固定する。 騎士達の手が私にも伸びてくるので、私は嫣然と微笑んで「触るな」と命令した。彼らが動きを止めるとほぼ同時、入り口に王キサイアスが現われた。 王は変わらず悠然とした態度だった。だが、常に鼻先に張り付いていた余裕の笑みは消え、鋭く酷薄な目をぴたりと私に向けてくる。 騎士の一人が私の背後の窓の有様を見て振り向き、部下に号令を発した。銃を手にした騎士達がばらばらと走って行く。 そしてボレアが連れ出された廊下から銃声が一発響いた。遅れて荷物が崩れるような音。 ――そう。リップが言ったことは初手から冗談に過ぎない。裁判など開くはずが無いのである。 その時、王が、ゆっくりと歩んできて私の側に立った。ボレアの死すらを飲み下し、私は似合いの貴婦人のように、柔らかい微笑みを浮かべた。 と、思い切り横面を張り飛ばされて床へ転がる。まず熱が来た。随分遅れて痛みが張り付き、耳がワーンと鳴った。 けれど、何だか、奇妙に、おかしかった。 愉快ではないか。これしきのことで私を、傷つけたつもりなのか。御するつもりなのか、笑止千万である。 私は床から笑って王を見上げた。王は彫像のように青ざめた顔で、にこりともしていなかった。 私は彼に、血に染まった左手を見せる。そして口を開いた。 「褒美が欲しかったのです。私はこの結論を受け入れるのが嫌だった。ずっと嫌だった。 死ぬときにはたった一人と知っていても、一度他人を知ったからには、破滅と孤独の火に彩られた自分自身の運命を容れるのが怖かったのです。けれど……」 けれど私を生かした人間達が逃げることなく戦って、或いは生き、或いは死して地球を回しているのに、私一人、泣いてばかりいるわけにはいかぬ。 時の流れは一方にしか進まない。――引き返すことは出来ぬ。生贄は供され、第三の目は開いた。 たとえどんな運命でも、どんな人生でも、いずれ私は先へ進まねばならない。逃げることは出来ない。私はそれを、あの死んだ男から教わった。 私は立ち上がり、にっこりと踊りに誘う仕草で、王キサイアスに手を出した。 「お待たせいたしました。とうとう毒師チヒロは参りました。出ずに済むかと思っていたのですが、あなた様があまり呼ばわれるものですから。 もっともあなた様は私に鎖を付け檻に入れて飼われたかったご様子ですが、そのような勝手は通りませぬ。誰も運命を縦(ほしいまま)にすることはならぬように、毒物師を下僕にすることは出来ないのです。 それを知らぬものは私に触れる権利すらございません。今や私はようやくあなた様と対等になり、一緒に踊る準備が整ったのでございます。 ――ええ、陛下。慄かれることはございませぬ。もしもあなた様が誠に力のある、自らを受け入れる勇に溢れた御仁なら私をお使いになれましょう。 そうでない時は私はいなくなるでしょう。死していようが生きていようが大した異ではございませぬ。あなた様は命運から見放されるのでございますから。 チヒロは全てを見、全てを知り、そしてあなたに問いかけます。千度でもあなた様に問います。問に答えられる間は、私はあなた様のお側にありましょう。 さあ、陛下。私にあなた様の世界を見せてくださいませ。それとも目覚めた私を今ここでお殺しになり、木偶らの世界をお続けになりますか?」 王の、瞳の中にごく僅か、狼狽が渦巻いていた。私は裂けた唇で笑った。 見せろ。全てを私に見せろ。そしてある暁には呟くがいい。「俺はあの人間を殺したい」と。 私は全てを反射する。王はそう呟くとき、気の抜けた顔の自分を見るだろう。 耐え切れるなら本物だ。千度聞いて翻らぬならそれ以上は疑えぬ。 しかし耐えられぬなら偽物(ぎぶつ)である。その迷いはいつか己を滅ぼすだろう。 ――さあ、お前が自分を偽っていないかどうか、 お前の行為の、 罪の、 人生のその真贋を、私に示せ。 王キサイアスU世は、ゆっくりとゆっくりと手を持ち上げ、私の手を取った。完全な毒物師という生物が、どういう存在であるのか否応なく飲み込みながら。 息を止め目を見開いている騎士達の前で、私は彼に微笑みかける。 母の血を巡らせ、背後に燃える第三の目をきらめかせながら。 |