コントラコスモス -45-
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古都クレバナの開いたばかりの門前には、早朝にも関わらず見送りの人々が大勢集まっていた。大学関係者、施療院の同僚達、別れを惜しむ知り合いなどが、争うように丘から戻ってきた彼の手を握る。 マヒト(ここでは母の旧姓クンツバツを名乗っていたが)は杖を操りながら穏やかに全員と挨拶を済ますと、馬に乗り込んだ。足が悪くなってからもう随分経つ。一人で騎乗できるくらいの技術は着いていた。 九歳になる娘のカナが当然の権利のようにその鞍に同乗するのを見て、まだ地面にいる父親リップは口を尖す。 「またマヒトと一緒か。たまにはお父さんとも付き合えよ」 「だってお父さんうるさいんだもん」 「相変わらず手厳しいですなあ」 と、ブリスクは愛想笑いだ。 「何で嫌われるのか分かんないよ。こんないいパパいないのにさー」 「知らない。あたしは神父さまと行くから、お父さん後から勝手に来たら」 「がー!」 ともあれ、六名全員が騎乗して旅団は出発した。移住をするのはマヒト一人であり、他はみんな護衛なので荷は僅かだ。 古都クレバナで施療院を指導し、感激しやすい患者の一部から聖人などと呼ばれるようになっていた彼だが、未だに持ち物は少なく、衣服や生活にかけては学生並に無造作である。 公女アンジェリナはそんな彼に嫁ぎ先から度々布や装飾品を送って寄越したが、大抵仕舞い込まれ、じきに換金されて施療院へ流れるのが落ちだった。公女は半年に二度ほど彼に会うたび、がっくりと肩を落としてはため息をついたものだ。 見送る人々に手を振りつつ、彼らはやがて二列になって早朝の街道を進んで行った。その向かう先は東のコルタ・ヌォーヴォ。約九年の空白を経て、彼はようやく念願の故地へ戻るのである。 ――九年前の満月の夜、多くの犠牲を払って無事王都カステルヴィッツを脱したものの、さすがに至近且つ丸裸のコルタに戻ることは出来なかった。聖バッサリア修道院で保護を受けた彼らは、そのまま前教皇の娘ボブリンスキ公女の庇護のもと、古都クレバナへ逃れたのである。 そこで引き続き学問を積み、施療院に参加して居候の日々はうねりながらも瞬く間に過ぎた。 医療の現場では彼の技術と誠実はよく評価された。それに加え、ある日掌からの出血をうっかり他人に見られてしまったマヒトは、爾来奇跡の人扱いされて困っている。 一方、クレバナの厚い壁の向こうでは、本来なら聖職には無関係である類の、虚栄と権勢と愚昧が交錯する理解しがたい争いが相変わらず続いていた。 聖教会は分裂した。 北ヴァンタス王キサイアスU世が手中に収めた教皇ステファヌスは退位を思考せず、以前と変わらぬ正統性を主張し勅語を発し続けた。 片やコルタ・ヌォーヴォに残った枢機卿達は、傀儡となった教皇をもはや教皇と認めることは出来ないとの意向を示し、ステファヌスの廃位を宣言。投票によって新教皇を選出し、後に教皇庁をユーバレヒトへ移したのである。 勿論この分裂は遍く信徒に衝撃を与え、教会に大混乱を巻き起こした。たとえ正しい情報が行き渡っていたとしても、どちらの教皇を正統と認めるかは答えの出ない問題であったろう。虚報や憶測が飛び交った現実においては尚更で、議論しようにも土台すら均されておらず、いずれも延々と泥仕合が行われるだけだった。 恐ろしいことに、現在では混乱は混乱のまま定着の兆しを見せ、一般に北ヴァンタスの教皇庁は北庁と呼ばれ、ユーバレヒトのそれは南庁と称される。勿論両庁はこの呼称を認めていないが、端的に言って人々は取り乱し相争う教会権に幻滅し、日常という名の無頓着をもって皮肉な適応を見せたのである。 尚、北庁の教皇ステファヌスは事件後二年で死んでおり(暗殺との噂もある)、北ヴァンタス王の選出による新教皇がその後を継いでいる。 もとより本家のそのようなお家騒動に、我らがマヒトは無関心だった。一度は聖職を振り捨てようとした彼にとって、中央に期待するものは何もなかったのである。 しかし情報はリップに願って伝えさせていた。そのような罪業渦巻く憐れな人間同士の相克のさなかに、少しでも――ほんの少しでも、自分の愛した人間の息吹が聴こえてこないかと、耳を凝らしていたのである。 実際、噂は様々聞こえてきた。 カステルヴィッツの宮廷に突如復活した強力な毒物師の話。彼女は禍々しい工房を運営し、竜眼で人を射抜き、王さえ出し抜きかねない力を以って王宮の闇を操作している。 享楽の王の下で血みどろの争いを繰り広げていた貴族、成り上がり、女達はもう気ままな行為を許されない。毒物師は、王の希望を聞く代わりに、宮廷の運行を乱すような人間を独自の判断で抹殺するのだ。王はそのほとんど全てを黙認する。 毒物師は女で、金に目も呉れず、称号にも無関心で、自身の生き死ににも頓着しない。従って彼女を動かす術は無い。その目的で男を差し向けても死ぬような目に遭わせられるか、最悪は逆に手駒にされる。 その女は、今まで一体どこに隠れていたのかと不思議になるほどの力を持ち、舞台裏で北ヴァンタスの背面を支えている。 そういう噂だ。では実際に誰がその毒牙にかかったのかと問うと一気に細部が曖昧になるのだが、ともかく彼女は生きており、ぬばたまの闇の間をはいずっていることだけは知れた――。 ある時、事情を知らないコルタ出身の神父が、マヒトに向かって、 『そういえばあの女性はどうしたんだ』 と聞いたことがある。マヒトは自身が見た夢の台詞を答えないよう、咄嗟に口を噤んだものだ。 九年も声なく、便りすら叶わないような人間は、死んだも同然かもしれない。この後再びめぐり合えるという保証もない。事件後何度か接触を試みたこともあったのだが、宮廷の奥深くへ入り込んでしまった彼女に到達することは難しく、人脈の不足もあって諦めざるを得なかった。 その上に積み重なっていく新しい人間関係と好意と記憶。右足の傷は否応なく古くなっていく。 それでもマヒトは傷を抱き続けた。飽くことなく膨大な流言の海に彼女の存在を追い求めた。たとえそれが正視に耐えないほど乱れた姿の彼女であり、その度に傷口が開いて新たな血が吹き出そうとも、それを求めることは彼にとって呼吸をするように必要なことだったのである。 そのような穏やかで透けた水のような犠牲に満ちた九年間が過ぎ、事態が急な変化を迎えたのはほんの半月前のことだ。北ヴァンタス国王キサイアスU世が前触れもなく死去したのである。 陰謀と知略に長けた生涯だっただけに、そのニュースは額面どおりには受け入れ難く、どうやら本当らしいと分かった後には暗殺説が囁かれた。しかし、かねてから王の頸部背面に大きな肉腫が見られたこと、その食事には最大の注意が払われていたことなどから、現在は病死との認識が一般的である。 お気に入りの被保護者マヒトの望みを知っていた公女アンジェリナは、直ちに宮廷内部に探りを入れ、毒物師チヒロの消息を辿ろうとした。が、その思慮が結果を出すよりも、表の管理者を無くして一気にバランスを失した王宮の勢力図が乱へと雪崩れる方が早かった。 王の死去して僅か五日後、軍閥ユーグ家の長にしてキサイアスの息子でもある将軍ベネディクトスが深夜の王宮内に私兵を投じた。それが結局、内輪での大虐殺に発展したのである。 この猜疑心が強く些か頭の足りない将軍が集めた私兵というのは、そのほとんどが蒼騎士隊くずれの連中であった。ベネディクトスの目的はそもそも自分よりも優位な継承権を持つ皇太子、庶子、その他を、そして強力で目障である廷臣らを排除することであったはずだ。 しかし王都警備隊との戦闘の結果、故意か過失か火の手が上がると、その兵士らは途端に暴徒と化し、王宮内でのあてどない殺戮と暴行、略奪に酔った。 この蛮行によって一夜のうちに北ヴァンタスの王宮中央棟が焼け落ち、無関係の者も含めて数百単位の行方不明者を出すという、尋常では有り得ない結果になったのである。 当のベネディクトスはその後即位を宣言し戴冠したが、僅か二日後に部下によって撲殺された。先の虐殺を逃げ延びた皇太子がその残党を駆逐し、現在はようやく事態が収拾に向かっていると言われている。 とはいえ北ヴァンタスの支配力が激減したことは明白であり、早々と領地侵犯や納税無視、人材の流出が起こり始めていた。 今回のマヒトの帰都の実現もこれによるものである。もはや北ヴァンタスに他国を顧みる余裕はない。マヒトがクレバナを出てコルタに戻っても、問題なく暮らしていける情勢がようやく生まれたのだった。 小さなカナを前に載せ、四、五日の旅程を静かに進むマヒトの心は涼しさに満ちていた。第二の故郷ともいえるコルタ・ヌォーヴォにようやく帰ることができる。長い抑圧の果てに自らの望みのままに振舞えるということは、青空のように唯一無二な喜びだ。 ただ、北ヴァンタスの争乱に巻き込まれて行方不明になった彼女の消息が気がかりだった。勿論公女もリップも引き続き探ってはいるが、未だに有力な情報はもたらされていない。 「あいつのことだから生きているとは思うがなあ」 今日もまだ報せは無い、と騎馬の上で告げた後、リップはそう付け加えた。言葉は軽いが、目の光はやや翳っている。 彼も同じ音を聞いているんだろうとマヒトは無言で思う。リップも自分も口には出さないけれど、未だに繋がったままだ。ほんの少しの手がかりで心はすぐにさらわれ、あの満月の夜へと布を突き破って遡上してしまう。 恒星を失して為す術もなく、膨大な星の海へと転落したあの冷たさへ。 |