コントラコスモス -45-
ContraCosmos



 好天を得て、四日後の夜には予定通りコルタ・ヌォーヴォへ到着した。懐かしい門が、微妙に記憶と違っているように見えて思わず目をしばたく。
 それにしても予想外に多量の出迎えがいたことには驚いた。どうやら、マヒトに与えられたクレバナでの大げさな評判は、こんなところにまで届いていたようなのである。
 かつての同僚達はまだ分かるが、どうして見たこともない市議会のお偉方なんかがいるのだろう、と訳わかんなくなりながらも、マヒトは逆らわず挨拶を受けた。
 一番嬉しかったのは、花屋との再会である。彼女にはリップを度々、それも延々と借り出したりして、実に迷惑をかけた。手紙のやり取りはあったが、実際に顔を見るのはそれとは全然違う。骨が痺れるような嬉しさがあった。
 彼女が乳児を胸に抱いているのも押して、片腕の力の限り抱きしめる。その横には今一人、三歳ばかりの女の子が目を丸くしてのっぽの彼を見上げていた。
「お帰りなさい……! あなたが健やかでいてくれるとすごく嬉しいわ。よく帰って来てくれたわね」
 彼女は彼の太い首元から顔を離すと、長い睫毛の縁に涙をためて微笑んだ。その眼差しの聡明と、自然な美しさは少しも損なわれていない。
「俺もあなたが笑顔でいてくれると嬉しい。こんな時間にわざわざありがとう。……あと、リップとカナにはいつも本当に助けてもらっていたよ。それも、ありがとう」
「カナね。生意気言ってなかった?」
「言ってた言ってた」
 と、彼の横で代わりに答えたのは、眠ってしまった娘を背負ってやってきたリップである。
「お帰りなさい。お疲れ様」
「これ、ここで下ろしても君が大変だからちょっと連れてくよ。客が来てるんだ」
「――客?」
 異口同音の二人に、リップは一歩引いて道を開けると、顎で視線を誘導した。
 人と人が行き交うあわただしい到着の有様を背景に、見覚えのある人物が少し違った印象をまとって立っている。
「お久しぶりです、皆さん」
 よく似合う地味な帽子を取った。清潔で優しげな顔立ちをしたその同年代の男は、北ヴァンタスの外務官僚、かつてのチヒロの学友――
レジナルド・クレスだった。










 街の中央に座し、市民らに「宮殿」と呼ばれた教皇庁の本舎は、移転後も残った大学の施設としてそのまま使用されていた。出迎えに来た人間に話を通して、一室を臨時の客間と使わせてもらう。
「いい時刻になっちまったな」
 何しろ着いたばかりなのでこちらは埃だらけである。眠り込んだカナを長椅子に寝かせ、喉や手足を洗ったり飲み物を用意したりしている間に、はや時刻は深夜を過ぎていた。
「それにしても一体あの騒ぎはなんだったんだろう」
 と、マヒトは心の底から不思議な様子である。彼等の準備が出来るのを大人しく待っていたクレスが、ちょっと皮肉げな笑みを見せて言った。
「主と同じ傷を得たと評判の、生きた聖人を歓迎しないでどうします。両手の中央から、傷も無いのに血が滴るそうですね」
「ああ、これ……」
 彼は無用心な早さでひらりと掌を見せる。迷惑しているという顔だ。
「確かに出るんですが、何かの間違いですよ。少なくとも聖痕なんかじゃない。……僕はこれが嫌いです」
 クレスは逆らわなかったが肯きもしなかった。
「……聖人は自らを聖人とは決して認めないものです。謙虚なあなたのその姿勢もまた、人々の望む通りというわけです」
 グラスを手に戻ってきたリップが、机の上に置いて葡萄酒の瓶を取り上げた。手際よく順に赤色で満たす。
「お待たせしました。酒も出たし、話にしましょうよ」
 三人はめいめいグラスを取って軽く乾杯した。しかしその軽い音の後には妙な間が生まれる。
 いざ座が整ったというのに、誰も話を始めようとせず、視線もバラバラなままなのだ。思えば彼らはミノスを媒介にして繋がっていたのであり、それがなければ縁も無かったはずの人間同士である。さて始めようとて、前進しないのも道理ではあった。
 やがて、ぞんざいに足を組み、長い間クレスを見つめていたリップが、最初に口を開いた。
「それにしてもあなたがご無事で何よりだ。九年前の脱出劇の時には世話になりました。あなたの偽造文書がなければ、あんなこととても成功しなかった。マヒトも礼を言っておけよ」
「ああ、そうだったな……」
「いいんです。あれは僕がやりたくてやったことなのですから、特にお礼を言って頂くことはありません」
 と、クレスは手を振る。
 それが以前に比べてどうも崩れていた。葡萄酒の効果にしては早すぎやしないかとリップは思う。
「でもあれはさすがに義父に知れましてね。あの後一人で辺境に飛ばされました」
「一人で? 奥さんは?」
「妻(さい)は辺境暮らしなどとてもできる育ちではありませんから、義父とともに残りました。その後私は辺境ばかりを転々としてまして、そのおかげで今回の災厄を逃れたのです。不思議なものですね」
 ただ感心したきりのマヒトの隣で、リップの目が意地悪く光った。グラスの隣に肘を付き、妙にゆっくりと、聞く。
「……で、奥さんとお義父さんは今は?」
「……妻は運悪く宮廷内にいたものですから、巻き込まれて亡くなりました。義父とは以来、ほとんど音信不通です」
「つまり、自由になられた」
「…………」
 以前は穏やか一点張りだったクレスの表情に、苦味と影が宿っていた。
 恐らく彼は本来あってはならない喜びを感じた。そして日光を求めて喘いでいた自らの本心と再会したのだ。
「……母も二年前に死にました。そういうことになるでしょう」
「なるほど」
「…………」
 側でじっとしているだけマヒトも成長していた。九年前だったら怒り出すか唖然としていたに違いない。
 部屋にはまたしても滞りが生まれた。壁際の長椅子で眠る少女が一人、寝返りを打つ。
「――さて、妻の死とも関連するのですが」
 クレスは両指を組み合わせると共に、ようやく本題に乗り出した。
「先の大火災では大勢の人間が焼かれたので、遺体の確認に大変手間取ったのです。全く判別不可能なものは仕方がありませんが、手がかりが残っていそうな場合は調査しないわけにもいきませんしね……。
 それで数年前まで宮廷にいた僕も、妻以外の身元不明遺体をたくさん見せられました。
 その中に……。……その……」
 クレスの目が、躊躇いを見せた後、思い切ったように、マヒトの方を向いた。
「非常に……、申し上げにくいのですが…………」
 深夜の室内に息の止まる沈黙が満ちた。男二人の横顔が凝る。一秒ごとに世界が暗くなっていくような気がした。
「――私と、また、『彼女』の身の回りの世話をしていた侍女の一人が、そう認めました。十中八九間違いないでしょう。傷みが激しかったので、確定した時点で火葬しました。ご存知でしょうが、伝染病対策です。
 それに、万一ご覧になったとしても、傷つかれるだけだったと思います……。私が彼女と判じたのも、装飾品からでしたから……。
 ――私にとっても、実に残念でした。彼女のことなのでうまく逃がれたかと、そう期待していたのですが……」
 固まった時はまだ流れなかった。二人は共に耳の奥に吹き荒れる風の音を聴いていた。
 自由なクレスは一人で動く。胸ポケットの中から小さな白い布包みを二つ、取り出してそれぞれ二人の前に置いた。
「遺骨です」
 その言葉から二分も経った頃、ようやくリップの手が動き、一つを持ち上げた。静寂の中、紐を解き、露わにする。
 ところどころ焦げた跡のある、小さな白いものが現われた。顔を背け、見るつもりもないままに視線を投げているマヒトを知ってか知らずか、尋ねた。
「どこの骨だ?」
 鼓膜が痛むほど大きな声に聞こえた。しかし、実際は囁いたも同然だったろう。
「……舌骨だろう。欠けてはいるが、その小さな角が……」
 続かなかった。目を反らし、マヒトは口を噤む。
「なるほど」
 骨は布の上へ戻された。
「確実に死んだというわけだ」
 クレスは目を閉じる。
「天地が逆さまにでもならぬ限りは」
「……彼女の遺体はどこで?」
「文書庫の前です。恐らく、混乱に乗じて契約書を破り捨てようとしたのでしょう。そこを殺されたか……、煙にまかれたか、どちらせによ書類は灰になったわけですが……」
 蝋燭の炎が妖しく揺れ、それから静かになった。遥か遠く、塗りつぶされた窓の彼方から鐘の音が聴こえてくる。何時かは分からない。
 テーブルは今度こそ全く割れていた。クレスは目を閉じたまま、時折開くけれどそれ以外に動きは無い。リップは顎を引き、腕を組んでじっと骨を見つめている。
 そしてマヒトは、背もたれに体を預けたまま、首をほんの少しだけ傾けて音も無く沈んでいた。
 半時間ほども続いただろうか。
突然、マヒトの体が椅子を棄てて立ち上がる。杖を使いながら、そのまま部屋を横切ろうとするのを見て、リップが腕組みのまま問うた。
「どこへ行く」
 坊主は振り向きもしなかった。
「散歩だ」
「こんな時間に?」
「歩きたい」
「……まあここにお前を襲うような奴はいないと思うが、一応気をつけろよ。無理はするな」
 いつもの警告が終わったと判断したマヒトはいよいよドアノブに手をかける。
 その時、クレスが口を開いた。
「マヒトさん――」
 彼は動きを止めた。しかし前を見たままだった。
「もしもここにチヒロが戻ってきていたら……、あなたは受け容れましたか?」
「…………」
 リップの目が動く。
「どういう意味ですか?」
「あなたは聖者と呼ばれる人間です。あなたがご自身のことをどう思っておいでだろうが、周囲の人間はそう考えている。
 片やチヒロは、北の王宮で人を殺しまくり血をすすり男を誑かしていたという評判の魔女です。人を殺したのは事実ですし、あなたのように清らかではない。後ろ暗いことは幾らでもあるでしょう。
 ましてやここは一度蹂躙された聖都市です。たとえ事情があったとしても、それを人々に納得させるのは難しいでしょう。
 ……チヒロと共に有れば、あなたは幻滅され、批難され、ひょっとすると以前よりももっと軽く扱われるようになったかもしれません。
 それでもあなたは、彼女を受け容れましたか?」
 マヒトは不自由な右足を動かさずに、首をひねって肩越しにクレスを見た。何が聞きたいのかといった様子だ。
「他にどうしようがあるんです」
 布に囲まれた静けさの中に、その言葉は響いた。
「僕は血の巡りも鈍い、頭も固い、身も守れなければ、いい年して異性も知らないようなまるでなっていない男ですよ。
 魔女だろうが、人殺しだろうが受け容れる以外、何も出来ることはありません」
 ドアは開き、閉まった。
 その物音は微かだったのに、長椅子の上の少女がぴくりと動く。二、三大きな目を瞬いたかと思うと、体を起こし、父親に尋ねた。
「神父さまはどこ?」
「今しがた散歩に出たよ」
 リップは柔らかく答える。
「まだ夜道は暗い。着いて行ってあげなさい」
「うん」
 少女は眠たげな様子も見せずに小走りに駆けていく。
 その物音が無くなると、室内には一種の弛緩が生まれた。リップは両腕を解くと椅子から立ち上がり、窓辺へ立つ。
 外はまだ夜だ。窓ガラスは鏡のように彼の表情を薄く映して寄越した。その向こうに、一階なもので木立の間、杖をつきながら歩く坊主と、ちょこちょこと一緒に行く娘の姿がある。
「…………」
 振り向くとレジナルド・クレスの横顔に接した。彼は眉間に細い皺を寄せ、その上品な顔を寂しげに曇らせてぼんやり前を見ていた。







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