コントラコスモス -お笑い犬-
ContraCosmos



 滅多矢鱈に人から恵まれる人生というのも考え物だ。少なくとも自分はすぐ不気味になった。
 どっちかと言うと生来マゾの方だから、菓子に囲まれているよりは試練に囲まれている方が好きなのだ。
 だから戒めていた。
うっかり者がうっかり近づいてこないように気を張りつめていた。無類の親切を示す人間からは逃げることにしていた。
 何せ彼等は人にものを上げることは掛け値なしにいいことだと思っている。上げるものが宝石でもゴミでも放射線物質でも、上げるのだから悪いことのはずがない。
 もっと簡単に言えば、自分が他人にゴミを押し付けていると気付いていないということなのだが。少なくとも俺は、善意の振りまく害のことくらいは知っている人間を選んで付き合った。
 実に立派だ。
――どうでもよくなるまでは。
 どうでもよくなった瞬間は二回ある。
一度目は、初めて全身これクラゲかタコ、というくらいメロメロに女に惚れた時。そういう時には相手の素性も性格も問題点もまるで眼中になくなる。
 俺は恋人の部屋から戻ってきた眠い早朝、よく壁にもたれかかってあ――――――ダメだこりゃ。と思ったものだ。
 問題は多量にあった。何より彼女は世話焼きだった。したり顔して何くれとなく俺の世話をしつつ(年上だったというのも原因か)、俺に全面依存した。
 からくりは知れていた。彼女は避け続けてきた善意派の人間だったのだ。ところが今までの努力はどこへやら、俺は気張らずにそれを許した。許してしまった。
 自分を甘やかしたのだ。恋をしたのだからそれくらいいいのか、それともこれが葡萄酒を腐らす最初の一泡なのか、微妙なところだ――。
 西の果て、穏やかで美しい夕暮れの彼方にどこかの街のシルエットが見える。馬を下りて、手綱を放した。
「ほら、行け」
 馬の横顔をぱちぱちと叩いたが、動こうとしない。困ったように、窺うように、黒い目を俺に注いでいる。
「行け」
 俺はもう一度言った。それでも動かないので、今度は怒鳴った。
「行け―――― !!!」
 やっと動いた。馬はとぼとぼと歩き出す。
なんで馬にまで同情されなきゃならんのだ。
 ぼーっとしているとすぐに方々の街へ運んでいこうとするもので、二日後、それを手放した。
 そしてくるりと西に背を向けると、自分の足で平原を歩いていく。フラフラするのは寝不足と空腹のせいだろう。他に理由はない。理由はない。
 東の空は青というより真っ白に近い色だった。永劫に続いていく純粋でなめらかな場所。
 気持ちよかった。というよりはっきりしたことを考えるのが辛い。さっきも言ったが、もうどうでもいいのだ。
気のおもむくまま、流れていくまでだ。
 二度目は――。
二度目は、あれだな。
 何かこう、あの瞬間まで俺は本質的に真面目だったような気がする。真面目というのは天地の別を知りて上昇を肝に銘じているということだ。有体に言うなら泥棒なんてとんでもない、という良心が出世したみたいなものだ。
 だが泥棒にしても、殺人にしても、詐欺にしても、知ってしまった後の世界というものがある。それは真面目な世界よりもずっと広く、ずっと無頓着で、ずっと恐ろしい処だ。
 多分、あの瞬間俺はそこへ行ってしまったのだろう。だから今まで信じていた天が、本当に天なのか、貼りぼてだったのか、修辞だったのか、分からなくなった。
 北を見失えば船は大洋に迷う。
 まず乱れたのは自分だった。そして上位のつもりで世話を焼く真似をしていた彼女も、俺を引っ張り上げることなく共に倒れた。
 あっけなかった。最初から問題を解決できるような関係ではなかったということだ。容赦していた自らの弱さが実に痛恨の仇となった。
 ちょっとの油断で存在を許された実りのない甘い仕組みが、受け切れないストレスに晒された瞬間、大層悪い形で俺たちに逆襲したのだ。


『一緒に死のう? ……バルト。』



 ……ああ、もう一つ忘れていた。彼女はあまり思考を練るタイプではなく、あやふやな感情型だった。そしてあんまり早くに結婚したので、かなり世間知らずだった。
 だから俺はいつも、だめだこりゃと思っていた。彼女にではなく、自分にだ。
 こんな欠点だらけの女。他人を甘やかしてダメにするしか能のない女。働く労苦も知らず、戦場も知らず、ただただ子供を産んで無知な母になり、わけもわからず祭り上げられて死ぬだけのような女。
 そんな女(しかも人妻)に入れ込んだ自分がお笑いだった。全くお笑いだった。理論もクソもない。思えば一度目の譲歩の後はいつ破滅が訪れても当然だった。
 彼女に落ちた時点で不安な世界への扉は開錠され、放たれる瞬間を待っていただけのことなのだ。一度目が開き、二度目が押しやった。
 その二つのきっかけは二度の毒だ。そいつは未だに体に残って、事あるごとに眩暈と倦怠感を起こさせる。その度に俺はもうどうでもいいと思う。
 海に迷った水夫は酒を飲んで酔いの上に酔う。
お手上げです、ってことだ。
 そして拒まない自分に、他人の善意が前にも増して殺到する。そうよ最初から素直に受け入れていればこんなに楽だったのじゃないと言わんばかりだ。
 全く部屋は来るし美女は来るし花は来るし、タックルまでお見舞いされた挙句に馬にまで心配される…。生きる気持ちがなくても生きていられるほどに。
 暗くなっていく世界の中で、我ながら狂的に笑った。
 それでも。
 それでも人から恵まれる人生というのは考え物なのだ。そこには善意があるが、見事なまでに答えがない。
 一体自分はどこへ向かっていくべきなのか。
死なら死へ。
他の街なら他の街へ。
 まあ十中八九、前の結論になるだろうが、少なくとも自分の足で決めなければ止まれない。本当ならク・サンジュの城で決まりそうだったのに、あのワケのわからない坊さんのせいで再助走が必要になる…。
 冷たい秋風が草原を撫でて行った。すっかり暗くなった空に、ぽつぽつと星が現れ始める。
 歩いた。いつまでもいつまでも歩いた。
 もう頭の中は空っぽだった。思考は出尽くした。
 小さな流れを越したこともあった。林の中に入ったこともあった。休みは取ったが、眠たくはなかった。
 歩きたかった。
 俺はいい加減辿りつきたかったのだ。
何処かへ。









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