scene 4






 部屋に近づく足音が二つ。靴のうち一組は男物で一組は女物。どちらも現役の早さで、趣味みたいにカツカツ言わせながらやってくる。


「…いないのか? おい…?」


 やがて呼ばわる声が男のものなので、ノックをしたのもそっちだろう。女のほうは無言だったが、彼の脇からノブに手を出し、ひねってみたのは彼女のほうかも。


「鍵が開いたままよ」


 元気そうな高い声が聞こえる。定めし小柄なのだ。人体も楽器の一種である。


「…生きてるだろうな」


どうやら男のほうはのっぽらしい。



 足音は、少々遠慮をしながらも、やっぱり直線的に中へ入ってきた。ドアが閉まる。靴が敷物を踏む。また床を踏む。空気が動いて、居間への扉が開かれる。一拍間があって、
「…死んでるな」
「みたいね」
 スーツ地のこすれる音がした。男が両腕を組んだのだ。その前に女の足音が進み出る。ヒール無しのパンプスだ。歩き回る女の靴だ。
 屈みこむ気配があったと思ったら、額に指が触った。ぴく、と全身が動いた。女の指の、柔らかい腹が生え際を撫ぜた。
 それから、随分近いところで、名前を呼ばれた。
「ジダン。…ジダン・レスコー。起きなさい」
 その音が底辺に跳ね返って水面へ戻ってくるまで、少し時間がかかった。けれど戻りの波で奥から自然とまぶたが開く。
 開いてみると、もうすっかり明るかった。これは八時や九時の明るさじゃない。
 それでいてまだ甘い夢が酔いと一緒に残っていて、彼はしばしの間、妙に穏やかな表情で自分を揺り起こした相手の顔を眺めていた。
 ――が、ふと我に返ったらしく眉間が歪み、不審へと落ちる。
「…誰…?」
彼女はごくあっさりと答える。
「私はクリスティナ。魔法使いよ」
「は…?」
 一瞬の沈黙の後、彼は顎を反らして失笑した。
「なんだそりゃ…」
 自分を抱え込むように体の向きを替え、ソファの背に傾いだ額をこすりつける。
 再び眠り込みそうになるそこに、遠くから解説が放られた。
「ジダン。彼女は私の仲間だ。信頼できる女性だ。君の力になりたいそうだ」
 聞き覚えのある声に、二度、さらにもう一度首を捻じ曲げて振り返ってから、彼はようやく、唸り声を上げながら、体を起こした。
 自分でも酒くさいのが分かる。前かがみになってさんざ頭を振った後、両指の先でしょぼしょぼした目元をこすって眼鏡をかけ、苦労しながら男の方を見た。
「ヤコブじゃないか…。いつこっちへ?」
「昨日だ。着いたなり人から君の噂を聞かされた。災難だったな」
 応えず、左手の親指で隣を指す。
「…なあこれは夢かな。隣に女が座ってて魔法使いとか抜かしてるんだが」
「正夢よ」
 額を押さえたまま、答える女性の方を見た。しつこい程自分を見つめるその両目は光っているがにこりともしていない。真剣に童話じみた言葉を繰り返すばかりだ。
「望みを言って。何でも一つ。かなえて上げるから」
ジダンは苦笑した。
「おいおい…」
「ヤコブほどすごくないけど、大抵のことは出来ると思うわ。今、あなたが一番したいと思うことを何でも言って。そしたら私、動くから」
「――――」
 やっぱりこれは夢だな。億劫に息をしながら彼は思った。夢に知人の出てくることはよくあることだ。女性の唐突で強引な台詞といい、フワフワした手足のこの頼りない感じといい、流れを把握できないことといい、全く夢だ。
 ジダンは俯いたまま皮肉に笑った。夢でなければとてもこんなことを言えはしなかったに違いない。
「…なら、一昨日までのことを全て無しにして、女を返し、テレビの仕事も、俺の人生も、何もかも元通りにしてくれよ」
 沈黙が流れた。
ふとそれが、これが現実であることの証明になって、
――本当に目が覚めた。
 猛烈な羞恥を覚え、汗が出る。口元を手で押さえて女性の顔を見たが、彼女はやっぱり真顔のままで、それどころかはっきりと言ったのである。
「いいわよ」
 彼はその眼差しに捕まり、二枚のレンズ越しに薄水の瞳孔を奥まで覗き込むことになった。
「………」
「でも、本当にそれがあなたの一番やりたいことなの?」
「………」
 斜に目を逸らし、両手を唇の前で老婆のように揃えた。
 遠くでヤコブ・アイゼンシュタットが腕を組み、壁に寄りかかって成り行きを見守っていた。
「ジダン。かなえて上げられる望みは一つだけよ。だから、本当にやりたいことを教えて。
 あなたは一週間前までの生活に戻りたいの? それが無二の望みなの? それならそうしてあげるけど」
 長い時間が必要だった。考えていたのではない。決意が湧くまでかかったのだ。
 だが、『いつか失われても仕方がない』と初手から諦めているような嘘まみれのヌルい日常から凋落して、今この部屋で奇怪なほど真剣な二人に囲まれた彼は、やがて顔をあげ、まっすぐ彼女の方を見つめながら、吐いた。
「芝居」




「O.K.」
 女性は初めて笑みを浮かべた。生き生きした目に似合う、心の底から湧いた微笑だった。
「じゃあ、お芝居をやりましょうね」
「そういうことだな」
 言質を取るや、二人の客はあっという間に部屋から出て行った。
 カーテンの光る明るい部屋に一人残されたジダンは、まだ座り込んだまま茫然としていた。何が何だかわからないうちに、大変な日常を再開させる合図をうっかり送ってしまったような気がする。




 自分は呼んだ。確かに呼んだ。
けれど一体あれは、夢ではなかったかしら。





第一章 了



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