scene 1





 一週間後、自宅近くのカフェーで再び、彼はクリスティナに会った。何でも一つ彼の願いをかなえてくれるというふれこみの「魔法使い」は、白昼に再会してみると、ごく普通の出で立ちをした仕事が好きそうな眼鏡の女性に過ぎなかった。
 実際に顔をあわせるのは二度目。しかも前回は二日酔いとあって、ジダンは未だにこの状況が半信半疑だ。しかし彼女のほうはごくあっさりしており、理の当然のごとくすぐに本題へ入る。
「で、どう?」
「あの、その前に聞きたいんだけど、本気でやるの?」
 何を今更、と彼女は煙を吐き出した。
「あなたが言ったのよ。自分で。本気でなかったの?」
「…いや、一応夢現の確認をと思って」
「私はもうとっくにその気よ。あなたも覚悟を決めなさい」
 妙な会話だなと思いながら、ジダンは手持ちの本の頁の間から紙を取り出し、彼女へ差し出した。作ろうと思う芝居の、スタイルやテーマや必要なスタッフ、役者の人数に着いて凡そを記したものだ。うち、自力で集められそうな人材については末尾に○印が付いている。
「あら」
 クリスティナは灰皿に煙草を置いて受け取り、しばらく文面を追っていたが、やがてあの日と同じ様に、「O.K.」と満足げな笑みを浮かべた。
「ちゃんとまとめてきてるじゃない。感心感心。すごく動き易くなるわ。
 きちんとしてるのね。ヤコブからあなたは行儀がいいと再三聞いてはいたけど、本当だわ」
「劇団をやってた時、厳しい副演出にみっちり躾けられたんでね」
「ムッシュウ『フェイ』?」
 劇団を解散したのも、もう五年も前である。ついこの間会ったばかりの彼女の口からその名を聞くのはいかにも妙な気がして、覚えず小首を傾げた。
「さすがによく知ってるね」
「それは一通りはね。…前の『劇団シリス』の全般取り仕切ってたのはその人だっていうじゃない。興味はあるわよ。
 …今回自分のことを語る、というからには、劇中にその『フェイ』さんも登場してくるってことかしら?」
「…まあ、そうなるだろうな。そのままの名前では出せないだろうけどね」
「そう。とにかく了解したわ。これを元に人集めをするわね。あなたは引き続き脚本を書いてて。進捗は随時連絡するから」
 もう席を立ちそうになる彼女を慌てて引きとめた。全くこの女性には、知性的な風貌とは裏腹に、ゆったりしたところが全然ない。インパラとか鹿とか、そうでなければ落ち着きのない子供の所作を連想させる。
「あの、ごめん。時間はある? もう少し話をしてもいいかな」
「ああ。話があるのね? いいわよ」
 用があるならいいらしい。あっさりと承諾すると、ギャルソンを呼びとめてまた珈琲を注文した。一杯目を空けるのが異様に早かったので心配になる。
「摂りすぎじゃない?」
「久しぶりにこっちの飲んだらおいしくて。話って?」
「いや、僕ら、仕事をするのはいいとしてお互いのことをあまりに知らないだろう。ちょっとくらい聞いておいたほうがよくないかと思って」
「私はあなたのことを知ってるわよ?」
「こっちは知らない」
「だから魔法使いだって」
「フランス籍なのか?」
 きれいに無視されてクリスティナは舌を出した。
「残念ながらそうよ。でもここのところはずっとアジアにいたわ。あちこち行ったけど、三年前からバンコックを中心に仕事してたの」
「バンコックか…。縁ないな」
「元気な役者がいていい言葉があって自由な舞台があるのよ。国内専門の方々には、あまり信じてもらえないんだけど。
 ただ最近になって、ある程度仕事をやり尽くした感じがしたから、次はちょっと河岸を変えようかと考えてたわけ。そういう時、ヤコブがあなたの芝居のビデオをDVDに焼いて貸してくれたの」
「…どの演目?」
「劇団の解散公演と、その後のプロデュース公演の二本。どちらも、とても面白かったわ」
 微笑む彼女と反対に、ジダンは僅かに沈んだ面持ちで足を組替えた。給仕が追加の珈琲を置いていく。
「…じゃあ、ま、なんだな。それを見て、俺と仕事をしようかなと思ったわけだ」
「そ。せっかくだからここらで一度国に帰るのもいいかと思ったしね。何しろ五年も離れてたせいで、国内の状況がまるで分からなくなってるんだもの。
 でも一応ヤコブに相談したわよ。そしたら彼が、是非やれって。最近あなたは無難な仕事ばかりで『僕がつまらないから』」
 彼らしい物言いに失笑した。
「それで、人が弱っている時を狙って二人して乗り込んで来たと」
「ていうか前日から三階のヤコブの部屋で飲んでたのよ。時々電話入れてみたけど、あなた中々帰ってこないんだもの」
「…無言の留守電を何度も入れたのは君たちか?」
「え? そうかしら? ヤコブはすぐ切ってたけど。間違えて記録されちゃったのがあったとしても一、二回のはずだわ。それくらいの回数?」
「…いや」
 気の抜けた態でジダンは耳の上を掻いた。
「一瞬そうだったらいいなと思ったんだけど、どうも違うみたいだな」
「…あんまりユカイなことが起きるようだったら、相談してね。そういう痛い行為って、どこの世界まで逃げても絶対あるのよねー。ま、対処法だって幾らでもあるわ、くれぐれも取り合っちゃダメだからね。
さて」
 今度こそタイムリミットが来たらしい。ぐい、とまた一気に珈琲を煽ると荷物を持ち、立ち上がった。
「私は人集めを開始するわ。くれぐれもあなたは台本をよろしくね。
 ――それと、ジダン、いたって正直な疑問なんだけど」
「?」
「あなたっていつもそんなに覇気がないの?」
 カップに右手を沿わせた状態で、彼女の顔を見上げてきょとん、とした。自分では普通のつもりでいたのだ。ここしばらく仕事もしていないし、疲れてもいない。
「覇気、ない? 俺」
「そうねえ」
「年齢相応じゃない?」
「別に無理して出さなくてもいいけど。無理して出したら覇気じゃないし。
 たださあ、せっかく資源と金と時間と人集めて、1ミリたりとも世のためにならない大名遊びをするわけじゃない。だから」
 クリスティナは白い歯を見せて、全く五六歳の悪童みたいにニカッと笑った。
「絶対面白い舞台にしましょうね! じゃ!」
 あろうことか大声でバハハーイ、などと叫びつつカフェーを出て行く。残されたジダンは店中の視線を浴びて汗をかきつつ顔を伏せた。
 一見普通のキャリアウーマンなのに、やっぱりかなり変わった女性だ。絶対面白い舞台にしようね、なんて。
 なんて直球で恥かしい台詞だ。もう年齢が追っつかない。しかも真っ向から浴びてしまったその大声の威力たるや、五分経っても十分経っても汗と脇腹の震えが止まらないではないか。
 立つ折、最後の足掻きで冷めた珈琲を口に含んでみたが、正気には返らず、風邪でも引き初めているような顔の火照りに苦労しながら通りを歩いた。





 その夜、パソコンに向かっていたジダンの元に、ヤコブから連絡が入って携帯が騒いだ。同じ建物に住んでいるんだから会いくればよさそうなものだと思ったが、どうやら出先らしい。
 ちなみに時刻は午前零時半。このプロデューサはジダンより七歳も年上である。
『――役者はまだ揃う前かな』
「まだだと思うよ。リストを出したのが今日だから。なんで?」
 発光するディスプレイを眺めながら、足を近くのゴミ箱の上に投げ出した。耳元でヤコブの落ち着いた声が淡々と続く。
『君はアキに会ったことがあったな』
「あるよ。一回公演を見に行って、お前に紹介されて楽屋で握手したろ」
『うん。そのアキを君の舞台に出演させたいんだが…、何かで使ってやってくれないか』
「え?」
 棚からボタ餅、といった話に目が覚めた。ベテランのプロデューサである彼が関与する人材は、役者だろうがスタッフだろうが制作事務スタッフだろうが、みんなヤコブ印の品質保証がついている。
 突然わけもわからず発進して、本人までもが密かに罠にはめられたような状態だな、と思っているような低予算の、どう転ぶか分からない舞台に、すごい応援がいきなりやって来たという感じだった。
 しかも、東欧圏に強い彼が珍しくも日本から連れてきたアキというその女優は、これまた珍しいが私生活ではヤコブ自身のパートナーでもあって、傍目にも分かるほど大事にしている。それを「使ってやってくれないか」とは簡単に有り得る巡り合わせじゃない。
「それは願ったり叶ったりだけど、急にどうしたの?」
 彼の返答は相変わらずしらっとしたものだった。
『単にスケジュールが空いているだけなんだが、ちょうど本人も興味を持ったらしくてね。少し前に私の持っていたビデオを見て以来、気になっていたらしい』
「ビデオ?」
『クリスティナに見せたのと同じビデオだよ。どうもあれを見ると皆、君と仕事したくなるみたいだな』
「…ああ」
『何を沈む』
「いや、こっちのこと。
 …彼女の参加は大歓迎だ。ただ、下手をするとものすごくブザマな舞台になるかもしれないけど、いいのか?
 何しろ金がない上に急だから、多分まっとうな劇場では公演出来ないし、出演料も最低レベルだと思うよ。辛い割にキャリアの足しにはならないだろうな」
『それは君の気にすることじゃない。こちらから言い出したことだ』
「そうか。じゃあすぐクリスに伝えておくよ。近いうちに改めて顔合わせをしよう。
 …なんだか、君には色々世話になるな。ありがとう」
『プロデューサは世話が本分さ。それに低予算だろうが何だろうが、君の舞台は面白そうだからな。期待してるよ。
 何かあったら遠慮なく言ってくれ。ではな』
「ああ」
 携帯電話を投げ出して、腹の前で腕を組み、背もたれを軋ませた。
 まずは役者が一人、決まったというわけだ。







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