scene 2




 その日、ジダンは丁度台本を書き上げたところだった。ぶっ通しで作業して深夜に仕上げるような真似をすると、勢いはあるが細部が大雑把になってしまうことが多いため、執筆は強いて昼間にするようにしていたが、最後は引っ込みがつかなくなって朝方までやってしまった。
 そんなわけでシャワーも浴びずに布団を引っ掛けて眠っていたが、正午頃、しつこい携帯の着信で起こされた。疲労という段階を越してガビガビする目尻を引っ張ったりしながら、やっとのことで電話に出るとクリスティナである。
「今日の夕方、出てこれる?」
「…今、何時?」
「昼の零時過ぎ」
「あ、もうそんな時間。…何時にどこ?」
「五時にバスチーユで待ち合わせでどう? Mに一人面白い男の子が見つかったから、会ってほしくて」
「…役者?」
「ええ。あなたの役にどうかと思ってるの」
 眼鏡を探し当てて鼻の上に乗っけた。
「行きましょう」
「O.K. それと台本お疲れ様。中々面白かったわよ」
「もう読んだの?」
 台本はあがってすぐ、彼女にメールで送っておいた。午前四時過ぎの話だが。
「アシスタントの子にスペルチェックとプリントアウトをお願いしてるわよ。もうあがると思うけど」
「ありがとう。素早いね」
「人手が足りないから、どんどん仕事やっつけないとね。でもこういう忙しさは好きだから大丈夫!
 …じゃ五時にバスチーユで。きっと面白い役者さんだと思うわよ。楽しみにしててね!」
 えらいなあ。本気で感心しながらジダンは通話を切った。ここ半月ばかり一緒に準備をして思ったことだが、彼女は本当にいつも元気一杯で、仕事は早いしよく働く。その上、「覇気のない」の演出の尻を、さりげなく一々叩いてくれるのも実にありがたかった。
 彼女がそれだけがんばっているのだから、こちらもがんばらねばなるまい。ジダンはベッドから下りて、油っぽい頭を掻きつつ湯を被りにバスルームへ入った。
 約束の時刻まで、芝居のビデオを立て続けに見る。既に出演が決定済みの役者達が以前パリで行った公演二本だ。
 パフォーマンス集団「α」公演。とタイトルは銘打つが、もうこの集団はない。もともとディジョンで活動していた彼らだが、郷里の町からパリへ出て二度の公演を行った後、分裂解散してしまったのだ。
 クリスティナはそこから、リーダーであったデミトリ、他にミラ、ジャン・バチストという三人の役者を選び、契約と顔合わせを済ましていた。
 ノートをとりつつ、ビデオを見終わるともうあまり時間がない。身支度を整えて、もうすっかり慣れたがらんとした部屋から外へ出た。
 寒さに押されて歩いたら少し早く着いたので、手前の店に入って珈琲でも飲もうと思った。ところが、店に入るとそこにクリスティナがいる。彼女も時間前に来たらしい。カウンタで黒ずくめの長身の男と、なにやら話し込んでいた。
「やあ」
 声をかけると二人とも振り向いた。クリスティナは相変わらず、オフィス帰りのOLさんといった出で立ちだ。
「あら、あなたも来たの。寒いわね」
「こんにちは」
 男のほうと目が合ったので挨拶する。痩せているが颯爽とした男だ。年は多分同じくらいだろうが、くせの少ないゆったりとした黒髪を顎くらいまで伸ばしているのがよく似合っている。
 洗練された雰囲気といい、上質ですらりと流れるスーツといい、ものすごく高そうな靴といい、ある理想とされるスタイルを狂いなく身に付けて完成されており、当然人目を引く男だ。モデルか何かだろうか。
「あら、二人は初めて?」
 すると男のほうが先ににこっと笑って言った。
「いや、僕のほうはそれはもうよく存じ上げてるが、レスコーさんの方はどうかな」
 きれいな爪先でそう言われると焦った。テレビの仕事をして以来、あまりに多量の人間と会うので正直追いつかないところがあったのだ。
 彼が困っているのをさりげなく見て取り、クリスティナが紹介する。
「批評家のLD氏。よく『ラ・ソース』誌や『groove!』誌に批評が載ってるわ」
「LD?」
「この人の筆名。イニシャルで書くのよ。本名はさて、私も知らないわね」
「『groove!』って、音楽誌じゃなかった? 『ソース』はビジュアルアートだろう?」
その疑問には本人が答えた。
「何でもやるんですよ」
「そ。このヒト、何でもやるの。演劇の批評もするわー。LD署名の批評は怖いので有名なのよ、いつぞやは自殺者も出た、なんて」
「いやいや、とんでもない。本気にしないで下さいね、レスコーさん。
 今、彼女から話を聞いていたんですよ。何年ぶりかの舞台ですね、楽しみにしています。がんばってください」
 清潔な愛想で笑いかけられたが、ちっとも楽しい気分になれなかった。何故かまじまじとその顔を眺めてしまう。返事もせずに不躾だったろうが、LD氏の方は嫌味のない笑みでそれを受けるだけだ。
「あ。ごめんなさい。私達そろそろ時間だわ。じゃあ、LD。お先に失礼するわね」
 クリスティナが言って、二人は彼に挨拶して店を出た。ドアのところで振り返ると、相手もまだこちらの方を向いている。氏の黒い立ち姿は周囲から浮き上がるようにくっきりと見えた。
「昔からいた? あの人」
 改札へ階段を下りながら彼女に尋ねる。
「LD? 私が認知したのは二、三年前かなあ。敵も味方も多い人だけど、批評は的確だと思うわ。
 ただイニシャルだから意外に記憶されにくいのよね。探せばどこにでも記事は載ってると思うわよ」
「ふーん…」
 二、三年前というと、ちょうど舞台から最も遠くなっていた時期だ。それで知らずにいたのだろうが…。
「なあに? あの独特な雰囲気に飲まれた?」
「いや、というよりも…」
 あの男から血の匂いがして。縁起の悪い言葉を飲み込んで改札を潜った。





 パリから郊外線に乗って東へ二十五分。M駅に着いた。もう陽は暮れて街灯が目立ち始めている中を五分ほど歩き、クリスティナの先導で中華レストランへ入った。
「ヤコブが個室で一緒に待ってるはずよ」
「また彼の世話なのか」
「そうなの。東欧系の人脈から浮かんできた子なんですって」
「礼金を出さないといけないなあ」
「そうね。…でも彼って自分から請求してこない時には受け取ってくれないのよね。
 そんな金があるなら資材に使えって怒られると思うわ。だからいい舞台でお返ししましょう。勿論、余裕があれば私から言ってみるけど」
「頼んだ」
 衝立で仕切られた個室へ通された。するとそこには確かに、二日酔いの朝に会って以来のヤコブ・アイゼンシュタットと、今一人、見知らぬ青年が丸いテーブルについている。
 若い。二十代の前半だろう。がっちりした体つきに、上は白地の長袖のTシャツ一枚だけという薄着だ。下は黒のジーンズ、頭は短髪で、見た目の印象では、電気の配線とか水道の修理とか、そういった作業をする店にいる若者という感じだった。
「来たな」
 アキの件もあったので、上着を取った後ヤコブと感謝を込めて握手した。相変わらずぞんざいに彼は受ける。が、この男は大きなネタを隠している時ほどそ知らぬ態度を装うのだ。それでかえって期待が動いた。
「彼がヨシプだ。ヨシプ、これがさっきから話していた演出家のジダン・レスコーだ」
 食事も乗る前だったので、ヨシプ青年は一応立った。が、にこりともしない。ろくにこちらの目も見ない。握手も体に似合わずぐんにゃりしていた。
 声が聞きたくて「はじめまして」と振ってみたが、
「どうも…」
と言ったきり、その場はおしまいになった。
 いかにも受身で、言われるがまま連れてこられた子供といった風情だ。その表情は情動に乏しく、彼がこのめぐり合わせを喜んでいるのかどうかを知るための手がかりすら浮かんでいない。
 さすがのジダンも要領を得ない顔をしていたのだろう。仕切り屋のクリスティナとヤコブはともかく彼らを座らせ、給仕に食事を開始するよう頼んだ。
 すぐに前菜がやってくる。テーブルの上には箸とフォーク類とあったが、食べるようにと勧められたヨシプ青年はフォークを使い、しかも持ち方が子供じみてちょっと変だった。
「ヨシプはクロアチアの出でね。子供の頃から欧州の親類の家を転々として、フランスには三年前から住んでる」
「…じゃあ、言葉が?」
 そのせいであまり喋らないのかと思ったが、ヤコブはあっさり否定した。
「言葉は大丈夫だ。さすがに母国語並みとはいかないが、日常は仏語で生活していて問題のないレベルだ」
「普段は何を?」
 彼の顔を見て尋ねたが、答えたのはヤコブだった。
「今は母方の叔父の家にいて、水道の配管工事や住居の直しの仕事をしている。しかし、もし君が望むならパリへ連れて行ってもいいそうだ。
 叔父から聞いている条件はこうだ。仕事はどれだけ休んでもいい。ギャラはあってもなくても構わない。ただし、通うなら交通費、そうでなければパリでの滞在場所の提供はお願いしたい。悪い遊びからは遠ざけること。健康を害したら医者に見せること。
 それからもう一つ希望があるが――――それは、本気で君が彼を使う気になった時、電話で話したいそうだ」
 その時、ジダンが片手を上げてヤコブを止めた。
「…ちょっと待て」
まさかという面持ちで聞く。
「では彼は…、全く未経験か?」
「その代わりノーギャラでも構わんというわけだがな」
「な、なんだってェ…?!」
 すんなり肯定されて、当人の前だが脱力した。これだけ期待させられておいて、ずぶの素人を紹介されるとは思いも寄らなかったのだ。
「ジダン、この子は君に骨組みがよく似ている。髪の毛を伸ばして、同じ衣服にメイクをし、眼鏡をかければ、一瞬客が驚くくらい似たキャラクターを作れるぞ。おもしろくないか?」
「ヤコブ――――。君は台本を読んでないかもしれないが、JR役は今回の芝居の背骨だ。彼が説得力を持っていないと、企画全体がなんだかよく分からないものになってしまう。
 確かに風貌も重要だがやはり二の次だ。…俺、テレビで顔がいいだけのフニャフニャ役者との生ぬるい仕事に散々つき合わされてきたから、もうそういうのは勘弁なんだよ」
「そうか。だがなジダン」
 ヤコブはうろたえることなくゆっくりと喋った。クリスティナは無言で二人を見守り、青年は皿の上にかぶさるようにして一人炒飯を食べている。
「ヨシプは外見だけじゃないんだ。不運から現在は別の道を選んでいるが、私は、彼は生来の、舞台役者であると思う」
「―――――」
 何千人もの役者を見てきた彼の言うことだ。さすがにジダンは冷静になって体を引いたが、疑念は払拭しきれなかった。自然と、根拠を示せという空気になる。
 するとヤコブは青年の方へ向き、短く言った。
「ヨシプ。この人の真似を」
 ちら、とほとんど初めてヨシプ青年がこちらを見た。黒い瞳だった。
 彼は依然無表情のまま、それどころかスプーンも放さぬままに、いきなり言ったのである。
「君は台本を読んでないかもしれないが、JR役は今回の芝居の背骨だ。彼が説得力を持っていないと、企画全体がなにかよく分からないものになってしまう。」

「確かに風貌も重要だがやはり二の次だ。
俺、テレビで顔がいいだけのフニャフニャ役者との生ぬるい仕事に散々つき合わされてきたからもうそういうのは勘弁なんだよ。」




 長い沈黙があった。給仕が衝立の向こうから現れて、汁物と人数分の椀を置いていった後も、場は尚痺れていた。
「すっごー…い」
 そんな周囲の雰囲気も関せずに、一人芝居を終えてスープに手を出そうとしているヨシプ青年を見ながら、やっとクリスティナがそれだけ漏らした。
 ジダンはまだ固まっていた。夢の中で、動いている自分を天井からもう一人の自分が見ていることがある。そんな気分になったほど、それは自分そっくりだった。
 特に最後の方は、失望した自分の態度の悪さまで露わに再現されていて血の気が引いた。
 当人は元の無気力ぶりに戻ってズルズルとスープをすすっている。
「彼が出来るのは君だけじゃない」
 ヤコブは相変わらず淡々としていた。
「何でも真似する。近隣の住人、カフェーの給仕、得意先の主婦、テレビで見るタレントや、政治家や、CFのフレーズから言葉も分からない外国人の口真似までする。
 昔からだそうだ。父親は、郷里で教師をしていたそうだが、素人劇団に所属して催しものがある時など寸劇を上演したりしていたらしいから、その血もあるだろう。
 ただ彼自身は、一度も秩序だった演劇の教育を受けたことがない。彼を取り巻く状況がそれを許さなかったのだ。
 彼はモリエールもシェイクスピアもチェーホフも知らない。スタニスラフスキもブルックも名前すら知らない。
 彼が知っているのは真似をすることだけだ。まるでとかげが周囲に合わせておのが皮膚を変色させるように、確たる意図もなしに彼は外部を再現する。
 彼の叔父は、この才能が誰にでもあるものではないことを知っているし、生活に埋もれ失われてしまうのを惜しがっている。私も勿体無いと思うが、君はどうだ、ジダン?」
 言われてやっと目だけを、このどこからどんな素材を引っ張り出してくるか予想のつかない、怪物プロデューサの方へ向けた。
「この磨かれぬままの原石を使ってみたいとは思わないか? やめておくというなら、彼はまた叔父の手伝いをして従兄弟達と一緒に、壁塗りやねじ回しや掃除の仕事をするというだけなのだが」
 ジダンはもう術中に落ちていた。だからダメ押しをするヤコブに対しこの野郎、という気持ちになった。
「彼の保護者と話をしたい。今すぐにでも――――。彼が言った条件は全て飲む。最後の条件を聞きたい」
「よろしい。ちょっと待て」
 ヤコブが背広から携帯を取り出し、コールしている間も、ヨシプ青年は独り黙々と飯を食っていた。自分の未来に関わることなのにまるで無関心だ。ケージに囲われて取引されるペットを連想させた。
「食べこぼしがついてるわよ」
 クリスティナが手を伸ばして口元に触ったが、取ってもらってもちょっと彼女を見ただけで礼もない。そこに叔父と電話がつながって、ヤコブの携帯が渡された。
「もしもし?」
「はい。ヨシプの叔父です。はじめまして」
 こちらはしっかりした、落ち着いた中年男性の声だった。やや訛ってはいるが、彼と血縁だというのが不思議なくらいのまっとうな話者だ。
 ジダンはあらかじめ聞いていた条件について、一つ一つ確認しながら守る旨を伝えた。叔父はそれなら、明日からでも、一週間後からでも自由に彼を使ってくれて構わない、と言う。
「ただ住所と連絡先は知らせておいてください。私の娘や息子たちが、彼の声を聞きたいときもあるでしょうから」
「それは勿論です。ヨシプは僕の部屋へ同居してもらおうと思っています。犯罪に関わるようなことや、彼の健康を害するようなことには一切関与させません」
「あなたがそういう方でないことは、アイゼンシュタットさんからよくお聞きしています。どうかヨシプにこの世の色んなことを見せてやってください。
 それから、もう一つ条件というか、お願いがあるのですが―――――」
「はい」
 ジダンは、対面に座る青年の姿を眺めながらその言葉を聞いた。





 冷めた食事をかき込んで、往来に出た。雨が降っていた。掃除もあるので、ヨシプに来てもらうのは二日後にする。待ち合わせ場所と時刻を書いたメモを渡し、青年と、彼の家族に挨拶にいく、というヤコブと別れた。
 クリスティナとジダンは、互いにろくに話もしないで帰路の大半を過ごした。電車が来て、乗り込んで、空いていたので席に座り、後は人が満ちたり引いたりするのを無言のまま眺めていた。
 ようやく、もうあと一駅でジダンが降りるという時、彼女が尋ねた。
「最後の条件、何だった?」
 長距離列車の中古車両を使いまわす郊外線の、薄暗い明かりの中で彼はうん――――、と頷いた。
「芝居の台詞みたいだったよ」
 あの青年はあの言葉も同じ様に容易く真似できるのだろうかと思いながら。
 自分にそんな才能はないので拙く再現した。
「『あの子を愛してやってください』」





第四章 了



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