scene 1




 天候のコロコロ変わる日だった。朝方シャワーのように雨が降って、昼にはからりとなり、今はまた降り出しそうな重い雲が西からぞろぞろやって来ていた。
 ジダンとクリスティナは車でパリ東部へ向かっていた。舞台が作れそうなイベントスペースがあると聞いて、見学してみることにしたのだ。
 劇場は既に一つ、仮決定していた。しかし本来ならレヴューをやるのが適当そうな古式な劇場で、照明がやや自由でなく、また一部の客席が舞台からえらく遠いのだ。仮押さえしつつも、もし他にいい会場があるならギリギリまで探していたい状況だった。
 そこに例のカフェーで会ったLD氏から情報がもたらされたのである。東の方、ラ・ヴィレットの付近に衣料工場跡を利用したイベントスペースがある。芸術に理解のある企業の所有で、よく現代美術の展示がされるが、舞台も作れるだろうし、2005年にはモード学校の生徒達がここで卒業制作のショーをやったりもした。
 機材は劇場ほどないので持込が多くなるが、その分自由は利く。ためしに見てみてはどうか、と。
「彼から親切にされる理由が分からないなあ」
 助手席でジダンが言った時、フロントガラスに水滴が落ち、ボツと音を立てた。
「また降りだした」
 次々と広がる水輪に、ハンドルを握るクリスティナはワイパーを起こす。彼女は運転も正確だし、なんだか妙に車が似合う女だった。
「あなたのことは前から知ってたって言ってたじゃない。それに、彼だけじゃなくてヤコブだって照明のジャンだってダレルだって、親切すぎて私はもう充分びっくりよ。パリじゃないみたい」
 それはそうかもしれない。ジダンはこの企画が走り出してから、周囲があまりに盛り立ててくれるので、嬉しいのは嬉しいが、少々面食らっているくらいだ。
 テレビはやりにくかったし、無駄に疲労させられることも多かった。特にスタッフ間にわだかまる妙な対抗意識が意味なく作業を阻害することが度々あって、「各自のプライドは一旦置け。皆でいいものを作ろう」という前提すら崩れた現場も少なくなかった。
 手ひどく消耗させられる度、この世界には馴染めない、とげんなりしたのは事実だが、冷静になって考えてみれば舞台の世界だって結構ゴタゴタしていたはずだ。劇団をやっていた頃は、黙っていて上からモチが降ってくるなんてことはまず有り得なかった。
「みんなねえ、飢えてるのよね」
 雨が斜に流れる道を走りながら、クリスティナが言った。腕を組んだジダンも、前を見たまま、認める。
「――――そういうことだろうな」
 自分に対する好意がないとは言わない。だが、それ以上に『もう一度いい舞台が見たい』という欲求が、彼らを一層親切にしているのだ。
 最初はただ驚いてありがたく思っていたジダンも、さすがにそろそろ、背後に込められた願いに気付き始めていた。
 助力してくれる旧知のスタッフ達は、昔の自分の舞台を知っている。あの解散公演と続く二度ほどの公演をも記憶している。その力と共に、彼らの希望と期待とが雨雲のようにゆっくりと彼に迫りつつあるのだ。
 考えて少し苦しくなったジダンは、こっそりと息を逃して辛抱した。どうあっても彼らの技術は必要だ。ならば、期待を引き受け或いは失望させるのは自分の仕事であって、逃げるわけにはいかない。
 車はやがて駐車場に着いた。が、ちょうど雨が佳境に入ってしまい、足止めを食う。
「ちょっと待った方が利口ね、これは」
 車体を叩く雨音を味わいつつ、ジダンは頷いた。クリスティナが煙草に火を点けるので、ついでに一本もらう。
 辺りは薄暗く、雨の音で何も聞こえはしない。駐車場の脇を流れていく車の、赤いテールランプを見送りながら、気長に煙を吸っていた。
「――――舞台なんてさ」
 長い沈黙の後、クリスティナが口を開く。珍しく億劫げな声だ。
「うん」
「無理の固まりじゃない」
「はいはい」
「生きて死ぬのに何の関係もないわよね」
「昔はそれで賤しまれたね」
 殊、教会には目の敵にされた歴史がある。
「私、若い頃二年程法律の仕事してたんだけど」
「へー」
「嫌いじゃないのよ。そういう仕事も。家庭も。この街も。決して嫌いじゃないの」
 少し目を向けると、彼女はフロントグラス越しに鉛色の空を見ていた。白い頬の上で水滴の影が連なり、やがて流れていく。
「でも我慢できないのよねー。
 昨日久しぶりに母と姉に会って来たら、…姉にはもう子供が二人いるんだけど、どうしてそういうふうに出来ないのかと叱られたわ。
 うーん。どうしてでしょう」
「………」
「事務仕事も、サラリーマンも、悪くないわ。悪くないけど、諦められないの。
 これだけが人間だと思いたくない。人間はもっとすごいはず。もっとわくわく出来るはず。もっと燃えられるはず…。
 私結局、自分が退屈してるのが見過ごせない性分らしいのだわ。そして人にも手抜きしてほしくない。
 でもそういうのって、オフィスじゃすごくうっとおしがられる考え方なのよね…。家庭でも。私ってほとほと、定住生活に向いてない人間だわ」
 オチを付けるように微笑まれたが、ジダンに言うことはなかった。言うことがなかったので、体を伸ばして軽く口づけした。
 すぐ離れるとクリスティナはいつもの調子に戻って、非難のマナザシを作る。
「嫌だわー、たらしって」
「たらしじゃないよ」
「何言ってんの、知ってるわよ。劇団シリスの女優さんと残らず仲良くしてたくせに」
「二人だけだよ。そんなにもてません。第一、最後の一人はフェイに取られたわけだし…」
 コンコン、と運転席のガラスがノックされた。振り向くと、車の側に黒ずくめの男が立っている。
 窓を下ろすと、LD氏だった。いたずらっ子を見つけた大人のような顔をしている。
「たらしはいけませんなあ」
 相手の方がいかにも本式の色男のくせ、そう言われた。
 いつの間にか雨は小降りになり、そのまま打ち止めの気配だ。それで彼らは車を降り、親切なLD氏の案内で会場を見て回った。





 なんだか二の次になったが、会場は悪くなかった。特に工場だけあって天井が高いのがジダンの気に入った。確かに機材は足らないので持ち込まねばならないが、基本料金も安いし、とにかく運営側が設営に協力的でやり易そうなのだ。
「悪くないでしょう。ここは穴場なんですよ。前々からここで舞台も出来るはずだとずっと思ってましてね」
 にこにこしているLD氏に尋ねた。
「申し込む時はどうしたらいい?」
「書類に記入してここの事務所に提出します。それを上が審査して―――――まあ十中八九大丈夫なんですが、許可が出たら払込を」
 ジダンはクリスティナと話し、申請書類をその場で書いて出して帰ることにした。
 建物から出たときには、先程までの雨はすっかり上がって雲は消え、見事な青空が出ていた。









 数日後、事務所から返答がメールで届いた。
『不許可』という文字列に目を疑った。
しかし末尾に記載された管理企業の名を見て沈黙する。
 楊氏国際貿易。
劇団シリスで制作全般を取り仕切り、演出補を勤め、長らくジダンの片腕だった男。楊飛龍、通称「フェイ」の血族が経営する会社だ。




第五章 了



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